イタリア旅行④ティントレットの衝撃、ティツィアーノの色彩
イタリア3日目の10月10日早朝。ホテル近くを歩く。サンタ・ルチア駅前の船着場を発着する水上バスはすでに大勢の人を乗せている。船での出勤風景。観光がらみの職場に向かう人たちだろうか。
朝食後、スーツケースを引きずってホテル内迷路の階段を上り下りしてチェックアウト、夕方の列車の時刻まで、荷物を預ける。
橋を渡り、路地に入り、勘を頼りにサンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ教会へ徒歩で向かう。
ティツィアーノの教会へ
地図を見れば、小路には行き止まりもあり、途中、Google経路案内に切り替え、10分ほどで、教会に着く。
いずれもサンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ教会
目的は、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488/90―1576)の「聖母被昇天」。
聖堂の最深部に置かれたその祭壇画は、遠くからでも、聖母マリアの衣のオレンジがかった赤と、ショールのダークブルーの対比が目に入ってくる。
1516年から2年がかりで制作され、1518年5月に教会に設置された。今年2018年はそれからちょうど500年、記念のイベント、コンサートを知らせるポスター(8月ですべて終わっていたが)掲示されている。教会の英語版ホームページには、「HAPPY BIRTHDAY ASSUNTA」とあった。「被昇天の誕生日」???
齢500歳の絵画の両脇には足場が組まれ、何か補修中のようだった。
ヴェネツィア派の代表的画家ティツィアーノは、並外れた色彩感覚による近代的油彩画法と大胆な構図、筆使いで、ルーベンス、ベラスケス、レンブラント、さらにはドラクロア、印象派にも影響を与えたらしい。
スペイン・マドリッドのプラド美術館には、「カール5世騎馬像」など名作が数々収蔵されているのだが、時間がなくて、ちらっと見しかできなかったため、地元イタリアに行くなら見たい、と思っていた。
ここにはもう一点ティツィアーノの「聖会話とペーザロ家の寄進者たち」もある。
聖母子が中央ではなく右寄りに描かれるなど、絵画における当時の約束事をいろいろ破っているらしいのだが、専門家ではないので、それはいいとして、やはり色彩の鮮やかさとコントラストが印象的だ。
誕生年は諸説あるが、ペストで亡くなる90歳前後まで生き、祭壇画から神話、肖像画、ヴィーナスの風俗画まで、ジャンルを問わず生涯500点も描いたとか。
美術史家E.H.ゴンブリッチは著書「美術の物語」の中で、当時最も評判が高かったのは肖像画だったとして、「この巨匠に描いてもらうという名誉を手にするために、世の権力者たちが競い合っても無理はない。といっても、ティツィアーノの肖像画が、権力者のお気に召すように描かれていたというのではない。権力者たちは、ティツィアーノに描いてもらえば、自分たちが後世まで生きつづけられると思ったのだ」と書いている。
アリタリア航空の機内誌「PASSIONE」で妻が見つけた記事があった。漫画「テルマエ・ロマエ」の作者でイタリア在住のヤマザキマリさんが南アルプスの世界遺産ドロミーティの特集に文章を寄せている。そこには、夕暮れ時に山頂がバラ色に染まる「エンロサデイラ」と呼ばれる現象を捉えた写真が載っている。裾野の緑、遠景の山々の濃い青、残雪の白とのコントラストがこの世のものとも思えない感じを醸している。ティツィアーノはこの地の出身で、12歳の時に叔父の暮らすヴェネツィアへ向ったという。
年に数回しか起きない「エンロサデイラ」現象を、ヤマザキマリさん自身は直接目にしたことがないとしつつ、「ティツィアーノの絵画で表現される、あの斜陽の光が当たっているような豊かで深い色彩は、彼が子供の頃にきっと何度も目にしたであろう、ドロミーティ山塊の光の恩恵と捉えていいのかも知れない」と書いている。納得、ですね。
ティントレット劇場
教会を出て、すぐそばにあるサン・ロッコ大信徒会へ向かう。ここはティツィアーノの弟子でもあったティントレット(1518―94)の絵で埋め尽くされている。入ってすぐのところに「受胎告知」がある。ある雑誌でこの絵を見て、見たことのない動的「受胎告知」に興味がわいた。
サン・ロッコ大信徒会
1階の壁には「受胎告知」から「聖母被昇天」までの聖母マリアをテーマにした8シーン。その「受胎告知」は、多数の天使を従え室内に飛び込んできた大天使ガブリエルに、びっくり仰天の聖母マリアという図がユーモラスでもある。
「受胎告知」
「東方三博士の礼拝」
大階段から2階に上がると、天井にはモーゼやアダムとイブなどの旧約聖書の13場面の絵がはめ込まれ、両脇の壁はキリストをテーマにした10点が並ぶ。
小部屋には大きな「キリスト磔刑」。見学の一団がガイドの説明を聞いている。
どこもかしこもティントレット。これらを1564年から1587年まで、つまり46歳から69歳まで23年がかりで描いた。そしてどの絵もハリウッドのスペクタクル映画(形容がちと古い)のように超劇的!、少し新しいところでは映画「ロード・オブ・ザ・リング」の世界。
カメラでは光の具合でうまく撮れなかったものも多いので、以下、ホームページからも借用する。
Homepage - Scuola Grande di San Rocco
「モーゼ、岩を打ち水を出す」
天井を見上げていると、かの「スタンダール症候群」になりそうな気配だった。イタリア旅行中のフランスの作家スタンダールが、フィレンツェの教会で天井画を見ているうちにめまいに襲われ、芸術作品の見物過剰で気分が悪くなることを心理学サイドからこういうようだが、長時間首を曲げていて血行が悪くなっただけ、という説もあり、首が痛くなったので、こちらかもしれない。
いくつかの絵に奇妙なものを見つけた。人物が電磁波のようなものをまとっている。映画「ゴーストバスターズ」のゴーストのような。実物では見えにくかったのだが、図録を見ると鮮明にわかる。なんかすごい絵。65歳まで、この画家を名前しか知らなかったとは。ボーっと生きてんじゃねえよ!まったく。
Homepage - Scuola Grande di San Rocco
「キリストの洗礼」
マニエリスム研究の大家グスタフ・ルネ・ホッケは、著書「迷宮としての世界」(種村季弘、矢川澄子訳)の中で、マニエリスムの代表的画家としてティントレットとエル・グレコ(1541ー1614)を挙げる。
「<爆発的に凝固した>頂点のひとつがティントレットの傑作、ヴェネツィアのスクオーラ・ディ・サン・ロッコの『キリスト昇天』である。天使の翼に目をとめるがいい。これは全ヨーロッパ芸術の中にみずからの姿に似たものを探し求める<異常―静力学>である。つぎにやや奥まった画面の中心点を見よう。すなわち<イデア>の世界からきたエーテル様の、テレプラズマ風なものの像(かたち)…」と、この「電磁波らしきもの」に注目している。
Homepage - Scuola Grande di San Rocco
「キリスト昇天」
マニエリスム美術は一時期、ミケランジェロらルネサンスの巨匠の手法(マニエラ)の模倣でしかないという否定的な意味で使われていたが、19世紀以降、ルネッサンスとバロックをつなぐ様式で、古典主義の自然模倣に代わる幻想芸術として再評価され、ホッケはモンス・デジデリオやサルヴァドール・ダリ、マックス・エルンスト、ピカソへと続く系譜を指摘している。
ティントレットはヴェネツィア生まれで、ティツィアーノの工房に入門したが、20歳ごろには独立して(追い出された説もある)すでにマエストロを自称していたという話がある。
E.H.ゴンブリッチは「美術の物語」でこう評している(少し引用が長くなりますが)。
「16世紀後半の最大の巨匠と目される人物がヴェネチアにいた。ヤコポ・ロブスティ、通称ティントレットである。当時ヴェネチアでは、巨匠ティツィアーノ流の、形態と色彩による単純な美が主流となっていたが、それにはティントレットも飽き足りないものを感じていた。といっても、ただ風変わりなものを作りたかったわけではない。彼はこんな風に感じていたのではないだろうかーー美の巨匠という点ではティツィアーノはずば抜けているけれど、彼の絵は、目を楽しませるものであって、心を打つものではない、聖なる伝説や聖書の壮大な物語を生き生きとよみがえらせるほどの迫力はない、と。ティントレットの考えが正しかったかどうかはともかく、彼が聖なる物語を別のやり方で表現しようとしたことはまちがいない。彼は、出来事の場面に、見る者をどきどきさせる、劇的な緊張感を与えようとした」
Homepage - Scuola Grande di San Rocco
「最後の晩餐」
「ジョルジョ・ヴァザーリ(1511―74)といえば、当時のフィレンツェの偉大な批評家であり伝記作家だが、ティントレットについてこんなことを言っている。『もし彼が、踏みならされた道から外れずに、先人たちの美しい様式に従っていたら、ヴェネチアが生んだもっとも偉大な画家のひとりになっていたかもしれない』。実際ヴァザーリは、ぞんざいな描き方と奇抜な趣味のためにティントレットの絵は台無しになっていると思ったし、絵に『仕上げ』が欠けていることも不満だった。『彼のスケッチはひどく乱暴で、その鉛筆の線は知的な判断に欠け、勢いまかせに描いた偶然の結果のように見える』。新しいことを始めた画家に対しては、これ以降、よくこういう非難が浴びせられるようになった。しかし、それもとくに驚くことではない。なぜなら、芸術の偉大な革新者たちは、本質的なことだけに集中することが多く、いわゆる技術的な完成にとらわれるのを嫌がるからだ。ティントレットの時代ともなると、根気さえあればだれでも高度な技術を身につけることができた。しかしティントレットのような画家は、ものごとを新しい光に照らしてとらえ、過去の伝説や神話を描く新しい方法を探求したかった。伝説上の場面について自分の心に浮かんだヴィジョンを表現できたとき、かれにとっては、それが絵の完成だった。丁寧でなめらかな仕上がりなどになんの興味もなかった。そんなことをしても意味がない。仕上げにこだわったりすると、見る人がそっちに気をとられて、肝心の劇的な情景を見てもらえなくなる。だから、彼は仕上げをしないまま、あとは見る人の想像にまかせたのだ」
Homepage - Scuola Grande di San Rocco
「キリストの復活」
Homepage - Scuola Grande di San Rocco
「羊飼いたちの礼拝」
極端にデフォルメされた人体像と極彩色で、聖書のシーンを「ティントレットを超える大胆さで」(ゴンブリッチ)劇画のように描いたエル・グレコは、スペインに行く前、ヴェネツィアに滞在し、ティントレットから多くを学んだとみられている。
イタリア中北部では13世紀後半から、信仰と相互扶助を目的とした信徒会が数多く生まれ、ヴェネツィアでは「スクオーラ」と呼ばれた。ペスト感染者の守護者の名のもとに集ったサン・ロッコ大信徒会は、ヴェネツィア共和国崩壊、そしてナポレオンの信徒会廃止の法令にもめげず生き延びた大信徒会だそうです。
Homepage - Scuola Grande di San Rocco
「ペスト感染者を癒す聖ロッコ」
天井画のある2階の部屋は会議室で、机に椅子の会見場のような設えも
サンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ教会がティツィアーノの「聖母被昇天」完成500年なら、こちらはティントレット生誕500年ということで、諸行事に加え、「マグダラのマリア」と「エジプトのマリア」の修復事業が行われ、その修復の様子が目の前で見られるようになっていた。
修復現場にはティントレットの絵を抽象画風にしたものが掲げられていた
ティントレットとティツィアーノには、このあと訪れたアカデミア美術館や、フィレンツェのウフィツィ美術館でもお目にかかることになる。