パリ95番バス

映画と本とアートと遊歩

太宰治の津軽

奥入瀬から青森駅を経由して鉄道で弘前駅に近づくにつれ、車窓からリンゴの木に鈴なりの赤い果実が目に飛び込んでくる。この季節ならではの風景。りんご王国・青森県、その中でも弘前市は年間18万㌧近い収穫量で、市町村で断トツ日本一。リンゴ1個300gとすると、5億4000万個!という数になる。

弘前市の街なかにあったリンゴの木

弘前ではないけれど、星野リゾート奥入瀬渓流ホテルのレストラン「青森りんごキッチン」にこんなリンゴセラーが。ホテルにはリンゴのシャンデリアもあった。

西洋にはリンゴにまつわる話がやたら多い。

旧約聖書のアダムとイヴの禁断の果実に始まり、ウイリアム・テルが息子の頭に載せて射抜いた伝説、ニュートン万有引力の木から落ちるリンゴ、白雪姫の毒リンゴ、ニューヨークはビッグ・アップルだし、ビートルズのレコード会社、パソコン会社もアップル……に比べて日本にはない。リンゴはミカンについで生産量の多い国民的果物なのになぜ、と思うけれど、日本に来たのは明治の初めと日が浅いから、という単純な話のようだ。

弘前城へ行った。

本来なら石垣からしゅっと立ち上がる姿をしている天守が、100年ぶりの石垣修理で、本丸の内側に移動したため寸詰まりな印象に。背景には津軽富士・岩木山

城は津軽統一を果たした津軽為信が1603年に計画、二代目藩主によって1611年に完成した。天守は一度落雷で消失したが、1811年に再建され、重要文化財に指定されている。

天守に登ると、枝垂れ桜の向こうに、標高1,625m、なだらかな稜線の岩木山がよく見えた。弘前公園の桜は、明治末期から市民の寄贈で植えられ、約2600本が園内を埋めている。園内を歩くと、太い幹の立派な桜並木が続き、季節にはさぞや、と想像する。

公園のソメイヨシノは黒々した老木が多いようだが、幹の途中から元気な枝が伸びている。地元の人いわく、リンゴの剪定技術が桜の木の生命維持に生かされているとか。

公園の南にはレトロモダンな洋館がいくつも保存されている。

白壁に赤い屋根の旧市立図書館は明治39年(1906)に東奥義塾の敷地に建てられ、1990年に移築、復元された。

旧東奥義塾外人教師館

旧第五十九銀行本店本館だった青森銀行記念館は、ミントグリーンと白のルネサンス風明治建築で国の重要文化財。設計施工をした堀江佐吉は、太宰治の生家で今は作家の記念館「斜陽館」の建物も手掛けたとか。

ホテルから望む岩木山

代表的観光スポットを駆け足で見ただけでも、弘前はいい街だと思う。

ところが、津軽の人、太宰治(1909-1948)は小説「津軽」で、弘前を素直には褒めない。

「桜の頃の弘前公園は、日本一と田山花袋が折紙をつけてくれてゐるさうだ」と書きながら、「桜花に包まれた天守閣は、何も弘前城に限った事ではない。日本全国たいていのお城は桜花に包まれてゐるではないか」と言う。

弘前自慢の岩木山にしても、「なるほど弘前市岩木山は、青森市八甲田山よりも秀麗である。けれども、津軽出身の小説の名手、葛西善蔵氏は、郷土の後輩にかう言って教えてゐる。『自惚れちゃいけないぜ。岩木山が素晴らしく見えるのは、岩木山の周囲に高い山が無いからだ。他の国に行ってみろ、あれくらゐの山は、ざらにあら。周囲に高い山がないから、あんなに有難く見えるんだ』」と、他の作家の言葉を借りてまで、貶めるようなことを言う。

津軽人の窮極の魂の拠りどころでなければならぬはずなのに」、弘前の決定的な美点を挙げられないもどかしさに、作家は悶々とする。

「いったいこの城下まちは、だらしがないのだ。旧藩主の代々のお城がありながら。県庁を他の新興のまちに奪われてゐる。日本全国、たいていの県庁所在地は、旧藩の城下まちである。青森県の県庁を、弘前市でなく、青森市に持って行かざるを得なかったところに、青森県の不幸があったとさへ私は思ってゐる。……負けてゐながら、のほほん顔でゐるのが歯がゆいのである」

故郷に贈る言葉を雑誌社から求められ、「汝を愛し、汝を憎む」と返答した自虐の作家の愛情表現は屈折を極める。

太宰治北津軽郡金木村(現五所川原市金木町)の大地主の家に生まれた。旧制弘前高校に進学し、東京に出るまでの3年間、弘前に住んだ。

小説「津軽」は、戦時下の1944年5月、生まれ故郷の津軽地方を3週間旅したことを元にした紀行小説だ。

 

「ね、なぜ旅に出るの?」

「苦しいからさ。」

「あなたの(苦しい)は、おきまりで。ちっとも信用できません」

本編はこんな夫婦のやりとりから始まる。主人公は芥川龍之介ら30代後半で夭逝した作家を並べ上げ、「おれもそろそろ、そのとしだ……」という。すでに自殺未遂は繰り返していた太宰だが、4年後の心中死を知っている後世の読者は、こんなところでも予言していたのか、と思う。

知人を訪ねてひたすら酒を飲み、この紀行、どこにたどり着くのか、と思っていると、最終章、30年近く会っていなかった幼少時の子守、たけに劇的再開を果たして幕を閉じる。

旧制弘前高校時代の太宰は義太夫にうつつを抜かしていたらしい。

当時太宰が通っていた喫茶店が残っていた。

「万茶ン」という奇妙な店名は、万人に茶を提供し、運がつくようにとの意味らしい。昭和4年創業の東北最古の喫茶店とされる。

作家が好んだことから名づけられた太宰ブレンドというコーヒーをいただいた。

弘前出身の小説家石坂洋二郎も訪れ、サイン入りの「若い人」の色紙が店に飾られていた。

店の前の小路にはなにやら昭和レトロなお店もあった。

弘前れんが倉庫美術館に、奈良美智さんのワンコを見に行く。

ローカル線・弘南鉄道大鰐線弘前中央駅の待合室。ねぷた絵や金魚ねぷたで飾られている。

駅には案内の人がいて、「美術館にはこのホームを通って行って下さい」と。

れんが倉庫美術館は2020年に開館した。元はリンゴ酒のシードル工場、倉庫として使われていたが、弘前出身のアーティスト奈良美智さんの展覧会を2002年から3回にわたって開催したのをきっかけに、市の美術館になった。

入ってすぐのところに、奈良さんの作品「A to Z  Memorial  Dog」。青森市青森県立美術館の「あおもり犬」と並ぶ大きくて真っ白な犬が入館者を迎える。

飛行機から見た弘前城弘前の街。

稲刈りの終わった田、まだ済んでいない田が幾何学模様を描き、アートのようでもありました。