ルーヴル美術館㊦ニケ、レオナルド、そしてピラミッド
ルーヴル美術館のドゥノン翼、彫刻が並ぶ廊下の突き当たりの階段上に、人だかりに囲まれて「サモトラケのニケ」が優雅にたたずんでいる。
1863年、エーゲ海にあるギリシャ・サモトラケ島の考古学調査で、腰、胴、羽根がバラバラの状態で見つかった。頭、腕はなかった。紀元前190年ごろのもので、復元すると3mを超えた。右の羽根は欠けていたので復元時に付け足した。
サモトラケの海戦の勝利を祝って、神殿に奉納されたとみられる。
ギリシャ神話の勝利の女神NIKEは、20世紀、米国のスポーツ用品メーカーの社名、ロゴになった。
羽根を広げ、船に舞い降りた姿とされ、風で体にまとわる衣の襞がリアル。
映画「タイタニック」でケイト・ウィンスレットが船上でディカプリオに支えられてするポーズが、ニケだった。
「ミロのヴィーナス」よりこちらに魅かれるのは、躍動感のせいか。
イタリア美術のギャラリー。
おお、行列ができている。
その先はもちろん、「モナ・リザ」。フランスでは「ラ・ジョコンダ」(ジョコンダ夫人)。
「モナ・リザ」の部屋、定番の光景。
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452ー1519)は、のちに世界で最も有名な絵となった肖像画を1503ー1506年に制作し、終生加筆し続けたといわれる。モデルには諸説(リザ・デル・ジョコンダではない,画家本人etc.)。
傑作のゆえんは、輪郭をぼかし明暗を繊細に描く「スフマート」とか、背景の山や川に用いた「空気遠近法」とか、究極の技にもあるようだが、やはり、神秘の微笑、でしょうか。
フィレンツェ 近郊のダ・ヴィンチ村で生まれ、フィレンツェ、ミラノ、ローマで制作活動をしたあと、1516年、国王フランソワ一世に招かれてフランスに移り、アンボワーズのクロ・リセ城で67年の生涯を終える。
レオナルドは「モナ・リザ」と「聖アンナと聖母子」「洗礼者聖ヨハネ」の3点を携えてフランスに来たとされ、死後、フランソワ一世が買い取ったことで、これらはルーヴルのお宝となった。フランソワ一世はルーヴルを城塞から宮殿へと改築した人でもある。
「岩窟の聖母」(1483―1486)
ミラノの工房での共同制作で、ロンドンのナショナル・ギャラリーにある同じ構図の作品は、共同制作者によるコピーとされる。聖母、キリスト、ヨハネ、守護天使の4人を描いたが、依頼者の同信会の指定と違うリアリズムだったため、受け取りを拒否され、共同制作者が描き直したという話が残る。コピーにある十字架、光輪、天使の羽根がこれにはない。
「聖アンナと聖母子」(1502―1506ごろ)
マリアの母アンナが背後霊のような奇妙な構図。「モナ・リザ」「岩窟の聖母」同様、背景の岩山が目を引く。この絵も様々な解釈がされる。
とかく謎解きを誘うレオナルドの絵だが、数は少なくて、未完のものもある。完璧主義ゆえの遅筆、途中放棄のせいらしいが、軍事学、天文学、解剖学の図解入り「手稿」を見れば、色んなことに興味を持ちすぎたのも理由でもあるようだ。
今年は没後500年で、ルーヴル美術館では10月24日からレオナルド・ダ・ヴィンチ展を開く。昨年来、来館者が増えすぎてオーバーフロー気味のため、入館の時間予約制を始めている。ミュージアムパスを持っていても、予約しないと入れないらし い。
雨の中、入館を待つ行列。
イタリアのマニエリスムの画家ジュゼッペ・アルチンボルド(1526―1593)の珍奇な肖像画。花、果実、樹木などを寄せ集めて横顔にした「春」(右下)、「夏」(左下)、「秋」(右上)、「冬」(左上)の連作。
カラヴァッジオ(1571―1610)の「女占い師」(1620年代)。
光と影のコントラストが強い写実的な宗教画とは違うタッチだが、前回登場したジョルジュ・ラ・トゥールの「いかさま師」に影響を与えたことがうかがえる作品。
エル・グレコ(1541―1614)の「キリストの磔刑と二人の寄進者」(1585―1590)。
イタリア、スペインの絵画が並ぶギャラリー。
ドゥノン翼からリシュリュー翼を臨む。
新古典派ドミニク・アングルの「グランド・オダリスク」(1814)。妙に長い腕など、体のバランスが変だと、当時は不評だったようだが、色んな「奇妙」を見慣れた現代から見ると、そうでもない。好みの絵、ではないけれど。
1816年、フランスのフリゲート艦メデューズ号がセネガル沖で沈没し、筏で150人が漂流、15人だけが救出された惨事を描いた。生存者の話を聞いて縦4.9m、横7.1mの大画面に再現したドキュメンタリー絵画。予備知識なしで見ても、圧倒されるが、これも、サロン出品時には賛否があったとか。
早世の画家はロマン主義の先駆けとして、ドラクロワに強い影響を与えた。
アリー・シェファー(1795-1858)の「パオロとフランチェスカ」(1855)。
ダンテの「神曲」地獄篇にある悲恋を描いた。ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」に並んで展示されているロマン派絵画。
18世紀の新古典主義彫刻を代表するアントニオ・カノーヴァの「アモルの接吻で蘇るプシュケ」(1793)。ルーヴルに数ある彫刻の中で人気の一品。
エジプトはじめ、まだまだ鑑賞し尽せていないけれど、空港へ向かう時間が近づいてきたので、また、次回があることを期待して、グッズコーナーへ。
永遠のライバル
おしりもグッズになっていた。ジャン・バプティスト・ルニョー(1754―1829)の絵画「三美神」をオブジェに。美術で遊ぶフランス人。
七色の「ミロのヴィーナス」
パリ随一の観光資源であるルーヴル美術館にも、過去ピンチがあった。最大のものは、なんといっても第二次世界大戦。
フランスがナチス・ドイツに宣戦布告する直前の1939年8月、フランス国立美術館副局長のジャン・ジョジャールは、「モナ・リザ」や「民衆を導く自由の女神」「サモトラケのニケ」など特に貴重な作品4000点を運び出し、郊外の城館などに避難させた。
40年6月、ドイツがパリを占領、ヒトラーが視察に来る。
ナチスはヒトラーの名前の付いた美術館をオーストリアに作ることを考えていて、パリの美術品を収奪するつもりだった…。
戦時下の美術品を巡るドイツとフランスの攻防を追ったEテレのドキュランド「ルーヴル美術館を救った男」は面白かった。ドイツ将校にもルーヴルの美術品を守ろうとしたした人物がいた。現在、飽きるほど見られることが、奇蹟でもあると思えた。映画にもなったノンフィクション「パリは燃えているか」にあるように、パリの街そのものも、瓦礫の山になる寸前だったのだけれど。
以上2枚は以前に撮った写真。
最後にピラミッドについて少々。
今、三つの翼に囲まれ、入口になっているガラスのピラミッドは1986年にできた。
1981年に大統領になったミッテラン(1996年没)によるパリ改造の最初の事業がグラン・ルーヴル、ルーヴル再生計画だった。
設計した中国人建築家イオ・ミン・ペイは今年5月に亡くなった。
ピラミッド設置時のパリ市長で、ミッテランの後釜の大統領になったシラクも今年9月に亡くなった。
ピラミッドは、 中世以来の宮殿にガラスの現代建築ということで、「景観を損ねる」と反対の声が当然上がった。
ミッテラン大統領の特命で改造を担当した文化相ジャック・ラングの「ルーヴル美術館の闘い グラン・ルーヴル誕生をめぐる攻防」(未来社、塩谷敬訳)に当時のことが詳しく書かれている。
リシュリュー翼から入居していた大蔵省を追い出し、駐車場になっていたクール・ナポレオン(中庭)にピラミッド、そして地下の空間に大きなエントランスホールや店舗を作る。
あちこちからの抵抗をはねのけて、という武勇伝のような内容は、政治家らしい手前味噌感もあるが、次のくだりに要約される。
「ルーヴルという眠りについていた古い宮殿をこれほど脚光を浴びるものにするには、山を動かし、それまで着手されなかったことを決行し、あらゆる保守的な概念を揺さぶらなければならなかった。(中略)古いルーヴルに[近代的建造物を建てるのは]冒瀆であるという考え方も壊す必要があった。そしてペイのピラミッドに不安を覚える人たち全員に、活気ある建物はいつまでも変わることなく、それどころか賞賛を得ながら、その生き生きとした姿を維持することができるという決定的な証を見せつけたのである。イオ・ミン・ペイを中心にしたグラン・ルーヴルの建築家たちは、それぞれの時代に影響を受けながらつぎつぎと層を重ねるように造られていったこの古い宮殿とその歴史に則して作業しただけなのである。今日誰がクール・ナポレオンの新しい様相やその静謐なエレガンス、そして斬新な調和を再び問題にするであろうか?ピラミッドやル・ベルナンの騎馬像なくしてルーヴルは二〇世紀のパリの新しいシンボルになり得ただろうか。そしてエッフェル塔が一九世紀のシンボルであり得たように、[ルーヴルも]二一世紀においてもパリのシンボルであり続けるであろう」
ルーヴル改造をきっかけに、フランス全体で300もの美術館が創設もしくは改装されたという。フランス人が自分たちの文化遺産を再認識する機会になったと、本には書かれている。
ルーヴルを初めて訪れたのは1997年なので、すでにピラミッドは存在し、素敵であると思った。それは今も変わらない。
これまでに撮ったピラミッドと周辺の写真を以下に掲載します。
古代エジプトのギザのクフ王のピラミッドと、高さ(20.6m)、底辺(35m)、勾配とも同じらしい。
ピラミッドを通してみるカルーゼル凱旋門
ル・カフェ・マルリーからの景色