エクス・アン・プロヴァンス2日目は、セザンヌがサント=ヴィクトワール山を描いた場所、レ・ローヴの丘に行く。

ホテルの朝食会場にはエクスの見どころの写真が飾ってあり、その1枚にサント=ヴィクトワール山も。

ホテル前のバス停から5番のバスに乗って出発する。乗車賃はクレジットカードのタッチ決済でOK。これは便利。プラタナス並木の木漏れ日が建物に映る。

バスが丘を登って15分、レ・パーントル(Les Peintres=画家たち)という名前のバス停で降りる。さて、そこへ行く道はと辺りを見回すと、「JARDIN DE PEINTRES」の標識らしきものがあった。

糸杉のある細い道を上ると、広場に出た。

広場の周りに、セザンヌがここで描いた「サント=ヴィクトワール山」の複製が並んでいる。

振り返ると、セザンヌが目にしたサント=ヴィクトワール山

午前9時ごろだったので、逆光になり、ごつごつした岩肌、白い山塊が明瞭に見えないのは残念だったが(光まで考えていなかった!)、だれもいない聖地からの眺めをしっかり見届けることはできた。

セザンヌは1901年、レ・ローヴの丘中腹に土地を購入してアトリエを完成させる。周辺を散策する中で、サント=ヴィクトワール山を遠望するこの場所を見つけ、1902年から亡くなる1906年までの4年間に9点の油彩と20点近い水彩を描いた。ここには油彩9点すべての複製が置かれている。
「聖なる勝利」と名付けられ、地域のランドマークになっていたこの山を、セザンヌは30代のころからいろんな場所で描き、油彩、水彩計80点ほどが残っている。最初のころは風景の中で小さめだったが、晩年になるにつれ存在感が増していく。
(参照、工藤弘二著「図説 セザンヌ『サント=ヴィクトワール山』の世界」)
珍しい縦構図

イギリスの美術史家E・H・ゴンブリッチは著書「美術の物語」の中で、セザンヌが成し遂げたことについてページを割いている。少し長くなりますが、引用します。
「印象派の絵は、輝きがあるが、まとまりがない。セザンヌはそんな無秩序を嫌った。とはいえ彼は、物の堅固な存在感を出すために、アカデミーの伝統的な描法や陰影法には戻りたくなかった」

「セザンヌは、自然を前にしたときの感覚的印象にあくまでも忠実でありたいと思ったが、それは『印象主義を美術館の作品のように堅固で永続的なものにしたい』ーこれは彼自身の言葉だーという望みと矛盾してしまう。たびたび絶望して打ちのめされそうになりながら、彼はカンヴァスにしがみつき、実験に実験を重ねた。それは不思議なことではない。不思議なのは、彼の絵が不可能と思えることを実現してしまったことだ」

「もし美術が単純計算のようなものなら、けっして矛盾は克服できなかっただろう。しかし美術は計算ではない。画家があれほど苦慮する均衡と調和は、機械的な増減で実現されるものではない。それは突如として『あらわれる』のだ。なぜ、どのようにして達成されたのかは、だれもわからない」

セザンヌの絵の中で、どのテーマが好みか、と言われれば、
1、水彩(風景、静物含めて、余白のあるものがとりわけ)
2、サント=ヴィクトワール山
3、静物(リンゴなど)
4、人物
水浴図はどこがいいのかわからない、という人は多いと思う。

ゴンブリッチはセザンヌの静物については、こう書いています。
「色彩の明るさを殺さず奥行きを感じさせ、奥行き感を殺さず整然とした画面構成を実現するために、セザンヌは並々ならぬ苦労を重ねた。
物の形を『正確に描き取る』ことを無視したのだが、そのことがやがて美術の世界に地すべり的な変化をもたらすことになろうとは、自身ほとんど気づいていなかった」

次第に抽象画に近づいていく「サント=ヴィクトワール山」

音楽と美術の評論家吉田秀和氏には、セザンヌについての著書がいくつかある。
その中で、思わず膝を打った一文。
「『セザンヌは何を描いたか。』もちろん絵を描いたのである」
このあと、「だが、『絵』とは何か?」と続いて、作品を分析しながら、答えを探っていくのだけれど…この禅問答のような一文に尽きている気もする。

最晩年の作品。余白が目を引く。
9枚の絵は世界に散らばっているが、複製とはいえ、ここでまとめて見ることで、セザンヌの苦闘の跡をたどることができたような気がした。
道を下って帰路につく。

途中に絵具の跡が点々と。まさかセザンヌのものではないでしょうね。セザンヌに倣ってサント=ヴィクトワール山を描く人々が残したもののようです。

バス通りに出た。帰りは下り坂なので歩いて市街地に向かうことにする。

途中、「セザンヌの家」の看板

ロータリーに立つのは門柱、門扉の遺構らしきものだが、何かわからない。

道沿いにあるセザンヌの「レ・ローヴのアトリエ」。残念ながら休館中で、開館は7月から。前年に没後120年(2026年)の前倒しのセザンヌ展がグラネ美術館で開かれ、このアトリエにも多数のファンが訪れ、対応に疲れたので、しばし休館となったのだろうか。18年前のエクス訪問時には、ここに向かう途中で道を聞いた女性が「今日は休館」と教えてくれて、アトリエを見学できなかった。よほどアトリエには縁がないのだろう。

塀の隙間から外観だけ見えた。


アトリエ前から来た道を振り返る

エクスの街を望む

下りてくると、「アベニュー・ポール・セザンヌ」の標識があった。歩いてきたバス通りはセザンヌ通りだった。

アトリエのリンゴは見ることができなかったが、店先に色鮮やかなリンゴを見つけた。
なんと、「FUJI」とある。日本の品種「ふじ」だろうか。ふじは青森発祥で1962年に品種登録されたので、セザンヌの描いたリンゴではありませんが、世界で一番生産されているリンゴとか。名前から北斎の「富嶽百景」の富士を連想し、サント=ヴィクトワール山百景を描いたセザンヌと北斎の縁を改めて思った(こじつけ)。

エクスの街には「CEZANNE」の道標があちこちの路上に埋め込まれている。

これをたどると、ゆかりの場所に連れて行ってくれる。

メーンストリート・ミラボー通りの西端、ド・ゴール広場にあるロトンドの泉。その前に画材を背負って立つセザンヌのブロンズ像がある。

セザンヌ像は等身大らしく、2006年に建てられた。オランダの彫刻家ガブリエル・ステルク作。この日は、イベントのアイアンマンレース?の準備で一帯がごたごたしていて、セザンヌさんは周囲から浮いた印象だった。
エクスが生んだ最高の画家であり、聖地巡礼に世界中のファンが訪れる、街のシンボルのような存在の銅像が、2006年までなかったのも不思議な気がする。
セザンヌは地元では長い間、あまり評価されていなかったのではないか。
前回にも書きましたが、グラネ美術館が作品をコレクションに加えたのは、やっと1984年。
詩人のガスケが画家との対話をまとめた「セザンヌ」は、評伝として面白い本だけれど、著者自身の考え、創作が相当入っているとされ、すべてをうのみにはできないようだ。しかし、そのなかで、繰り返し書かれているのは、セザンヌがエクスの人たちから奇人、変人扱いされ、絵画も理解してもらえない、という画家の姿だ。誇張があるにせよ、それらしきことはあったのかもしれない。
今では、「セザンヌの街」でアピールしているエクスだけれど。
ブロンズ像は繁華な街なかではなく、サント=ヴィクトワール山が見える静かなレ・ローブの丘に置いたほうが、セザンヌさんは喜ぶのではなかろうか、とも思う。

エミール・ゾラの像に出くわした。セザンヌと同じ年(1840年)に生まれ、中学時代からの唯一無二の友人は、エクスからパリに出て第二帝政期のパリの暗部をリアルに描き、自然主義文学の作家として名をなした(読んだのは「テレーズ・ラカン」だけです)。
ゾラはセザンヌがパリで画業の修行をした時も支援したが、絵画の革新を目指して苦悩する画家がやがて狂気に陥り死に至る小説「制作」を発表(1886年)したことで、友情にひびが入ったという話がある。真相はわからないけれど、ゾラにはセザンヌの絵も印象派の絵も理解できなかった、というのは本当のようです。
二人の友情と確執は映画「セザンヌと過ごした時間」(2016)にも描かれている。物語以上に、ラストで次々と映し出される「サント=ヴィクトワール山」の絵に目を奪われたのですが。

映画館にもセザンヌの名前。休館中のようでした。

こちらはホテル・セザンヌ(泊まったホテルは別です)。
エクスには1泊だけでしたが、満足のいく「セザンヌと過ごした時間」でした。