ポンピドゥー・センター㊦カンディンスキーからポロック
パリのポンピドゥー・センターにはワシリー・カンディンスキー(1866~1944)の作品が数多くある。
「抽象絵画の父」ともいわれるモスクワ生まれの画家の有名なエピソードを二つ。
一つは28歳のときの話。モスクワで開かれた印象派展でモネの「積藁」を見て、何が描かれているかわからず、主題もなければ対象も不明瞭な絵に反発…したものの、消し難い印象が残った。
その後、ミュンヘン時代のある日、アトリエに帰ってくると、何とも言えない不思議な美しさの絵が目に入ってきた。描かれた対象は不明だが、全体が明るい色彩の斑点でできていた。よく見ると、画架に横倒しになった自分の絵だった。この時、「対象は邪魔」と気付いたという。 (高階秀爾著「続名画を見る眼」から)
つまり、カンディンスキーの絵は、縦にして見ても横にして見ても、どっちでもいいよ、ということですね。抽象絵画のわけのわからなさを皮肉るギャグを、画家自ら披露するところが偉い。
「ムルナウ 塔のある風景」(1909) にじんだような塔、山、丘に抽象画の片鱗が
イタリア、オランダ、アフリカ、フランス、スイスへの旅行、パリの芸術動向に刺激を受け、1909年、ミュンヘンで「新芸術家同盟」を、11年には、グループ「青騎士」を結成する。
抽象絵画への道を切り開く中で、抽象がただの模様になる危険を避けるためのキーワードが「内的必然性」だった。
「インプロヴィゼーション(即興)ⅩⅣ」と題された1910年の作品。
「インプロヴィゼーション」と言えば、最近ドキュメンタリー映画が公開されたジャズピアニスト、ビル・エヴァンスの演奏スタイル。エヴァンスは日本の水墨画に即興演奏との共通点を見て、「出来上がった絵には普通の絵画のような複雑さや風合いは無いが、じっくり見つめてみると言葉では説明できない何かが見つかる」と、マイルス・デイヴィスらとのアルバム「カインド・オブ・ブルー」のライナー・ノートに書いている。
音楽はカンディンスキーの大事な要素だったとされる。
共鳴する絵画とジャズ。
「黒い弧のある」(1912)
1918年、革命後のソビエトで美術芸術委員に迎えられるが、スターリンの台頭で前衛芸術は否定され、故国に見切りをつけた画家は1922年にベルリンへ。総合芸術学校バウハウスで教官になり、パウル・クレーらと親交を結んだ。しかし、バウハウスもナチスの台頭とともに1933年に閉鎖され、今度はパリへ移り、パリ近郊で亡くなる。
印象派やフォービスムの影響から、非具象、円や弧などの幾何学的形態へと変化し、ついには記号のようなものに至る軌跡をここで観ることができる。
「黄-赤-青」(1925)
「二つの緑の点」(1935)
「コンポジション(作曲)Ⅸ」(1936)
「30」(1937) 生き物、自然の形態、音楽記号、いろんなものを想像させるカタログのような絵
ロベール・ドローネー(1885~1941)は、抽象画家としてカンディンスキー、モンドリアンほどは知られていないけれど、フランス抽象画の元祖的存在らしい。
「自画像」(1905―06)
カンディンスキーがドイツで新しい芸術を模索していたころに、パリで同じようなことをしていた画家がいた、ということのようだ。「青騎士」の第一回展にも出品した。
有名なキュビスム風のエッフェル塔シリーズは展示されていなかったが、音楽性あふれた極彩色絵画が目に飛び込んでくる。
ドローネー「メリーゴーラウンド」(1922) 抽象、具象、抽象と変転した画風にあって、これは抽象と具象が混在していますね
カンディンスキーとバウハウスで一緒になり、ドローネーとも親交のあったスイス出身のパウル・クレー(1879~1940)の作品もある。
吉行淳之介の小説「砂の上の植物群」とか、谷川俊太郎の詩集「クレーの天使」、詩画集で馴染み深く、日本のファンも多い。
柔らかい線と暖かさを感じさせる色彩。
「鍛冶屋KN」(1922)
「フィレンツェの村」(1926)
「リズミカルに」(1930)クレーはプロのヴァイオリニストだった。音楽を感じさせる市松模様!カンディンスキーの作品「30」にもつながる?
ナチスに「退廃芸術」の烙印を押され、身の危険を感じたクレーは1933年に生まれ故郷のスイス・ベルンに亡命、40年にこの世を去る。晩年は難病と闘いながらの制作だった。
バラエティーに富んだ独自の絵画世界は、「天使」シリーズのように「見えないものを描く」ことだった。
クレー「港と帆船」(1937)
オランダ人のピエト・モンドリアン(1872―1944)は、1912年に一時パリに出て、キュビスムなどの潮流に触れ、「純粋な色と線との純粋な関係」という独自の「新造形主義」の絵画を追求する。
「赤、青、白のコンポジションⅡ」(1937)。現代のデザイン、ファッションにも生き続けるモンドリアン風。
1940年、戦火を避けて渡ったニューヨークで、摩天楼と、碁盤状に交差した道路、点滅する光の風景、そしてジャズに魅せられ、「ブロードウェイ・ブギウギ」などの名作を生む。
「ニューヨークシティ」(1942)
マルセル・デュシャン(1887~1968)の「九つの雄の鋳型」(下)は、「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」の「独身者」を表した部分、「性的能力のシンボル」と、センター・ガイドにある。
1915年にニューヨークに行き、1917年に男性用便器に偽名をサインして「泉」の題で展覧会に出品、物議を醸し、「レディ・メイド」の生みの親となった。もっぱらアメリカで活動したが、23年に「…花嫁、さえも」の完成で絵を描くことをやめ、20世紀アートの神話化された存在になった。
ピカソは伝統絵画の聖画像破壊者だったが、まだ美術館内にとどまっていた、デュシャンは美術館の外に出てしまった、とフランスの美術評論家アラン・ジュフロワは書いている。2年前、「泉」から100年の記事があちこちに掲載されたが、そんなにすごい人なのか、正直、わかりません。
アンドレ・ブルトン(1896~1966)の部屋がある。
「シュルレアリスム宣言」(1924)でシュルレアリスム(超現実主義)運動の花火をドカンと打ち上げ、多数のアーティストを巻き込み、政治にも関わったこの人には、半世紀前の10代後半から20代初めにかけ、心酔した。ちょうど、人文書院という京都の出版社から「アンドレ・ブルトン集成」の刊行がはじまり、少々値の張る本を何巻が買い求めた。資金が尽き、就職もあって、憑き物が落ちたように、離れてしまったが。
ブルトンがアフリカ芸術などの「魔術的芸術」を集めていた自宅の部屋を再現した。
ガラス越しにブルトンのシュールな頭の中をのぞくことができる部屋でもある。
右の壁に掛かるのはダリの絵画か。
興味のない人には、変な一角、としか思われないかな。
ブルトンで好きな著作は「黒いユーモア選集」と「ナジャ」。いつか、ブログにこれらのことをまとめて書ければと思っているが、前者は編集力のすごみを感じさせるとてつもなく面白い本で、後者はパリの日常の中にある驚異が魅力、とだけ書いておきます。
以下、シュルレアリスム運動に加わった3人の作品を、説明抜きで。
フランシス・ピカビア「ブルドックと女性」(1941ー42)
アンドレ・マッソン「グラディーヴァ」(1938―39)
ウィルフレッド・ラム「結合」(1945)
むろん、ホアン・ミロもあります。
「青Ⅱ」(1961)(左)
第二次世界大戦はアートの風景も変えた。
ジャン・デュビュッフェ(1901~1985)の肖像画「アンズ色のドテル」(1947)は、死者を想起させる。
アルベルト・ジャコメッティ(1901~1966)には、この旅で「ジャコメッティのアトリエ」、マーグ財団美術館に続き、三度目の出会いとなる。
焼け跡から、あるいはあの世から現れた「恐ろしい者たち」の世界。
「鼻」(1947)
アンティーブのピカソ美術館で見て、画集も買ったニコラ・ド・スタールは、「音楽家たち、シドニー・ベシェの思い出に」を見たかったが、抽象画の「厳しい生」(1946)しか見当たらなかった。
第二次世界世界大戦中に、ヨーロッパからアメリカに避難したブルトンやシュルレアリスムの画家らの影響もあって、芸術の前衛は次第にパリからニューヨークに移る。
前衛を代表する抽象表現主義、アクション・ペインティングで知られるアメリカの画家ジャクソン・ポロック(1912~1956)らの作品にもお目に掛かれる。
ポロック「月ー女が円環を絶つ」(1943)
同「ザ・ディープ(深淵)(1953)
デ・クーニング(1904~1997)の「無題」(1976)
日本と馴染みの深いアメリカのサム・フランシス(1923~1994)の作品「別の白」(1952)
二つの大戦があった20世紀は、画家たちが国境を超えて移動し、影響し合うことで新しいアートの潮流を生んだ世紀でもあったと、ポンピドゥーで実感する。
開放された屋外には彫刻も展示されている。
テラスからパリの街が一望できる。エッフェル塔が見える。