パリ95番バス

映画と本とアートと遊歩

ポンピドゥー・センター㊤マティスからスーチン

南仏からパリに戻った翌日の月曜日、朝からルーヴル美術館に突撃したが、団体客以下行列が延々とできていたので、あきらめ、ギャラリー・ラファイエットなどショッピングゾーンをうろついたあと、午後にポンピドゥー・センターに行った。

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 何も知らずに見たら、誰も美術館とは思わない。

電気、水道、空調の配管とエスカレーター、階段を建物の外側に配置したため、工事中のビルあるいはガス工場のようだ。

「パリの景観をぶち壊す」と批判の声が上がったのもやむを得ない。「これぞ前衛芸術」といえないこともないけれど、3回目の訪問にして、違和感は消えない。

ちなみに設計者の一人は、関西空港ターミナルビルを設計したイタリア人建築家レンゾ・ピアノ

正式名ジョジュ・ポンピドゥー国立芸術文化センター。1960年代、芸術の流行の中心が米国に移ったような気がして焦ったフランスが、新たな発信地にするべくこしらえた、とされている。1977年の完成を待たずに亡くなった発案者の大統領の名前が付いている。

絵画、彫刻、写真、映画などなどなんでもありで(ニューヨークのMoMAもですが)、ライブ、フォーラム、教育機能も持った一種の20世紀芸術のお祭り空間みたいなものですね。

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 ここも行列ができていたが、ルーヴルよりまし、と判断して並んだ。

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ニースのマティス美術館の続きのような感じで、マティス(1869-1954)の作品を観る。

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「豪奢、快楽、静寂」(1904)。画家が所有していたセザンヌの「水浴する三人の女」のモチーフ、シニャックの点描画の影響を受けている。タイトルはフランス世紀末詩人ボードレールの詩集「悪の華」の一編、「旅への誘い」で繰り返される詩句から採られている。

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「マルグリットと黒猫」(1910)

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「コリウールのフランス窓」(1914)。夜の窓辺の風景を描いたとされるが、第一次世界大戦の暗鬱な世界とも

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「室内、金魚鉢」(1914)。金魚鉢と手前のテーブルの傾きが異なり、違う視点を一つの画面に入れ込む手法は、セザンヌでもあり、キュビスムでもある

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「グレタ・プロゾルの肖像」(1916)

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「アトリエの画家」(1916-17)

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「文様のある背景の装飾的人物」(1924-27)

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 「ルーマニア風のブラウス」(1940)。以前、日本で開かれたマティス展にもやってきた。赤、青、白のシンプルな色彩、盛り上がった肩のラインが、忘れがたい印象を残す

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マティスのフォービズム仲間、ヴラマンク(1876-1958)の「赤い木々」(1906)。ヴラマンクといえば、パリで佐伯祐三が見せに行った絵を、「アカデミック!」と一蹴、佐伯が独自の画風を築くきっかけになったエピソードで知られてます

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やはり野獣派、デュフュイ(1877-1953)の「トゥールヴィルのポスター」。ニューヨークのタイムズスクエアのネオンを見たら、画家はさぞ心躍らすことだろう

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ドガの絵の構図に似てますが…実はブラック(1882-1963)

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ブラックの「エスタック」(1906)。

ブラックはピカソと区別がつかないようなキュビスム絵画の印象が強いが、フォービスムと点描が合体したような、こんな絵も描いていたのですね。

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 「シオタの小湾」(1907)

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「ギターとグラス」(1921)

 ピカソとともに20世紀絵画の新しい世界を切り開いたブラックは、その後、キュビスムから離れる。

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「緑色の大理石テーブルの上の静物」(1925)は、大理石テーブルを偏愛していた時期の絵画らしい

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「窓の前の化粧台」(1942)。色彩に華やかさはないものの、構図はマティス

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ピカソの前にはいつも人がいる。そこにいるのは、マティスさん⁉️ではないですね。

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ここも

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ピカソの「夜明けのセレナード」(1942)

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同「輪を持つ少女、春」(1919)

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フェルナン・レジェ「街のレコード」(1920)

レジェ(1881-1955)はピカソと同年の生まれ。古い美術全集をめくっていたら、フランス人に不人気な巨匠としてピカソシャガール、レジェが上がっていた。もう40年も前に出版された全集なので、今もそうなのかどうか。人気なのはルノワールとブラックとあった。

ピカソシャガールはフランス人ではない、フランス文化とは異質、レジェはフランス人だけど、なんとなく絵が田舎っぽい、アメリカ的という点がダメな理由なのだという。フランス文化の中華思想が残存していたころ、でしょうか。

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「手と帽子のある静物」(1927)

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「読書」(1929)

ポンピドゥーにはレジェの作品が多数コレクションされている。

1900年代初め、モンパルナスの芸術家たちのアトリエ「ラ・リューシュ(蜂の巣)」に住んで、シャガール、モディリアニらとも交流。キュビスムの影響も受けた。

美術の教科書で、建設工事現場の労働者の姿を漫画的に描いた絵が紹介されていたことが記憶にある。現代の機械文明と人間への関心が、レジェ独特の絵画を生んだ。ポンピドゥーの建物に大変似つかわしい画家かもしれません。

第二次世界大戦の戦火を避けて、1940年にアメリカに行き、戦後は壁画や陶芸、舞台装置、映画など活躍の場を広げた。

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「潜水する人たち」(1944)。ポップですね

 

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「灰色のアクロバット」(1942-1944)f:id:LOUVRE:20190811083402j:plain

スーチン「 カーニュ風景」(1923)

この絵はいったいなんだろうか。建物も樹木も曲がりくねり、空間のゆがみが半端ない。ゴッホのうねうねどころではない。

これを描いたスーチン(1893-1943)はロシア生まれのユダヤ人。19歳でパリに来て、モンパルナスのアトリエ「ラ・リューシュ」へ。エコール・ド・パリ、異邦人たちのパリ。

そこでとりわけ仲が良かったモディリアニが1920年に亡くなり、精神的に落ち込んで、上のような絵が生まれたとされる。

印象派の外面主義の反動のように感情表現を重視した内面主義。

筆致はゴッホエゴン・シーレにも通じる。

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「彫刻家の肖像」(1923-24)

米国の美術コレクター、バーンズがその絵を気に入って画廊にあった全作品を買い取り、アメリカで、パリで評判が高まって、スーチンの絵は売れるようになった。しかし、1940年のフランスへのドイツ侵攻で、ナチスを逃れ、フランスの地方を転々とする中で病死するという最期だった。

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 スーチン「読書する女」(1940)