シャガール美術館
ニースのシャガール美術館はその名がついたバス停のすぐ近く、高級住宅街の一角にあった。正式名称は「国立マルク・シャガール聖書のメッセージ美術館」。1966年、シャガール(1887~1985)がフランスに寄付した聖書の場面17点の連作をもとに、73年、画家86歳の誕生日に開館した。
建設を進めたのは、パリ・オペラ座の天井画をシャガールに依頼した当時の文化相アンドレ・マルローだった。
旧約聖書の連作と赤い色彩の「雅歌」シリーズがメーンで、ステンドグラスもある。
「聖書のメッセージ」の部屋
電話をかけているのではなく、音声ガイド
「アブラハムと三人の天使」
昔、シャガールの絵はどれも同じように見えて、男女が抱き合って空を飛んだりする、宗教的、メルヘン的な絵が苦手だった。その後、初期のパリ時代のシュルレアリスム的、キュビスム的作品を知って見直した。
タッシェン・ニューベーシック・アート・シリーズには、「シャガールの絵画的言語の根本的問題」として、「愛し合う恋人たち、小屋、動物、その後の宗教的イメージ」の「各要素はシャガール自身の作品からの引用になってしまう。一見神秘的な世界を作り上げている要素は、やがて異国情緒以外には何も暗示しなくなり、各要素が表現するはずの実在は、図式化されてしまう」との指摘がある。シャガールを苦手と思ったのは、これだったのか。
ロシア生まれのユダヤ人シャガールは画家になるべく、1910年に憧れのパリに来た。140ものアトリエを持つモンパルナスの「ラ・リューシュ(蜂の巣)」で、モディリアニ、レジェ、スーチンらとともに絵を描くようになる。
1914年、ベルリンで初の個展を開き、そのままロシアに行くが、第一次世界大戦の勃発でパリに戻れなくなる。ロシアでの絵画制作を続けるうち、17年にロシアの10月革命が起きる。
パリに戻ったのはようやく23年。その後第二次世界大戦で、ナチスを逃れて41年にニューヨークへ。滞在中に最初の妻ベラを亡くす。再度フランスに戻ったのは戦後の48年、南仏のヴァンスに落ち着き、1966年にはサン・ポール・ド・ヴァンスに移り、97歳で亡くなるまで暮らした。
フランソワーズ・ジローの「ピカソとの日々」(野中邦子訳、白水社)には、南仏でのシャガールとピカソの軋轢が生々しく描かれている。
シャガールは亡命先のアメリカからピカソに手紙を送り、互いに、戦後会えるのを楽しみにするような仲だった。
50年にシャガールが南仏に来た当時、ピカソは陶器の街ヴァロリスに住み、陶芸に取り組んでいたが、その工房にシャガールがいきなり来て、制作を始めたことが、ピカソにはあまり面白くなかったようだ。
表向きは友人のように行き来していたが、シャガール宅での昼食会で決定的な仲たがいが生じる。
ピカソが「熱烈な愛国者のきみが、なぜ、ロシアに戻らないんだ?」と皮肉まじりに言った。
シャガールはピカソが共産党員であることをあてこすってか、こう返した。「きみが先に行くべきだ。聞くところによると、きみはロシアで大いに愛されているらしい。ただし、きみの絵は別だがね」
ピカソはこれに対し「きみにとっては商売第一なんだろうな。あそこじゃ金儲けはできない」
「その瞬間、友情は終わった」とジローは書いている。互いのあてこすりは延々と続いたという。
以来、二人が顔を合わせることはなかったらしいが、ピカソは「画家シャガール」を評価していた。
「マティスが死んだら、色彩の何たるかを理解しているのはシャガールだけになるだろうな」とジローに話している。「あの雄鶏やらロバやら空飛ぶヴァイオリン弾きやら、民話のあれこれには感心しないが」と言いながら。
シャガールはというと、「なんという天才だろう。あのピカソときたら。彼が絵を描かないのは残念だ」と、のちにジローに話したという。
この話は面白すぎて、タッシェン社の画集「シャガール」にも丸ごと引用されている。画集の解説では、シャガールは南仏に来た時にすでに巨匠となっていたピカソ、マティスに嫉妬心を燃やし、ミロに対しても誉めたことがない、とも書いている。毒舌は終生変わらなかったらしい。
「雅歌」シリーズ
絵には三人目の妻、ヴァヴァ(ヴァランティーヌ)へのメーッセージが添えられている
ホール舞台に置かれたハープシコードの裏蓋には画家の絵が描かれている。ステンドグラスは映像を流すスクリーンに隠れ、見ることができなかった。
代わりに、というわけではありませんが、以前訪れたランス大聖堂のシャガールのステンドグラスの写真を。美術館開館の翌1974年に制作したものだ。
シャガールはヴァンスのロザリオ礼拝堂でマティスが制作したモダンデザインのステンドグラスには批判的だったらしい。なるほど、シャガールの宗教的な図像、色彩はそのままステンドグラスになる。どちらもいい、とは思いますが。