7月20日、旅の最終日、朝から雨模様。夕方の帰国便まで時間がある。以前には、ルーヴル美術館とかパッサージュとかに行って、ぎりぎりまで時間を有効活用していたが、旅25日目の疲労もあり、ホテル近くの散策で軽く締めくくることにした。

サン・シュルピス教会
映画「ダ・ヴィンチ・コード」に登場、礼拝堂にはドラクロワの絵画もあるが、今回は教会は目的ではなかったので、素通りでした。

教会前の噴水


教会からリュクサンブール公園に抜けるフェルー通り。ここに目的の一つがある。

通りに面した壁(税務署の外壁らしい)に、フランスの世紀末詩人アルチュール・ランボー(1854-1891)の詩が書かれている。
「Le Bateau ivre」(酔いどれ船)全文。

少しアップすると

「おれが非情の大河をくだっていたとき、
おれを導く船曳きの綱の覚えはもうなかった、
かしましい赤肌の蛮人どもが船曳きを的にと捕え、
色とりどりの棒杭に身ぐるみぬがして釘づけていた。」(粟津則雄訳、以下同)
こう始まる韻文詩「酔いどれ船」は、1871年、ランボーが17歳でヴェルレーヌに呼ばれてパリに行った時、携えていった詩だ。

ベルギーとの国境に近い生まれ故郷の田舎町シャルルビルから、パリ・コミューンで揺れるパリに出奔したランボーは、詩のサークルになじめず、ヴェルレーヌと二人、あちこち放浪する。やがて破局を迎え、73年にヴェルレーヌがランボーを銃で撃ち、左手首を傷つけて逮捕される事件が起きる。
ランボーはその後、「地獄の季節」「イリュミナシオン」の散文詩を書き、21歳で詩を棄て、「風の足裏を持った男」そのままに世界を放浪する。ドイツ、イタリア、オランダ、東南アジア、アルジェリア、エジプト、アラビア半島のアデン、アビシニア(エチオピア)などなど。先々の商社で働き、武器、奴隷の売買もしたとされる。
91年、がん性腫瘍になり、マルセイユで右脚を切断、その半年ほど後に37歳で亡くなった。

「子供らにおれは見せてやりたかった、青い波間の
かじきの群、金色の魚の群、歌うたう魚の群。
ーー水泡は花と咲き開いて、流れ流れるおれをゆすり、
えも言われぬ風が吹いて時折おれは翼をえた。」
この詩を書いたとき、ランボーは海を見たことがなかったらしい。詩人の行く末を予言しているような詩。

20歳前後で後世に残る光り輝く詩を書き、その後詩を書かなくなった「呪われた詩人」のランボーは、日本では何回かブームがあったようで、1960年代も文学青年(とくにフランス文学好き=私)の憧れの存在だった。その詩には呪詛も希望も悔恨も嘆息も観照もあるけれど、何より青春特有の「渇き」に共鳴したのだと思う。「ランボーは私だ」なんちゃって。
今の若い人たちはどうなのだろう。ネット検索でランボーと引けば、シルベスター・スタローンの戦争映画「ランボー」がぞろぞろ出てくるけれど。

「だがまったく、おれはあんまり泣きすぎた!
曙は胸をえぐる、月はみなむごく、陽はみなにがい。
つらい愛が、酔い痴れる思いでおれをいっぱいにした。
おお竜骨を砕け散れ!海にとろけてしまいたい!」

2012年6月にオランダ人のカリグラファーが手書きで描き、オランダ大使館などが後援した。
なぜここに、この詩を、との疑問に壁はこう答えている。「1871年、17歳のランボーはサン・シュルピス広場の向かいにある古いカフェの一階で、友人たちに初めて『酔いどれ船』を朗読した」
「ランボーの言葉 地獄を見た男からのメッセージ」(野内良三編訳)という本には、商人ランボーが家族に充てた手紙がいろいろ紹介されている。
「ああ!ぼくは、人生にまるで未練がありません。
生きているとしても、疲れて生きることに
慣れっこになってしまったからなんです」
1889年の手紙にはこんなことが。
「今年の万国博に参加できないのは残念です。
私の稼ぎではそれは高嶺の花です。/
私自身を出品しましょうか。
だってこんな土地に長く留まっていれば、
さぞかし異様な風貌になっているでしょうからね。」

半世紀前に買って、少し読みかけただけで本棚に眠る「ランボー 全詩」とイヴ・ボンヌフォワの評論「ランボー」。後者は冒頭の「もっとランボーを読もうではないか」という一文を読んで納得し、それ以上進まなかった。
ジャン・リュック・ゴダール監督の「ピエロ・ル・フ」では、主人公のジャン・ポール・ベルモンドがダイナマイトで吹っ飛んだあとのラスト、青い地中海を背景にランボーの「地獄の季節」の一節が朗読される。
「見つかった
何が?
永遠が
海に溶け込む太陽が」
ドミニク・ノゲーズというフランスの作家の「三人のランボー」(鈴村和成訳)という本は、ランボーが実は80歳を超えて生き延び、「アフリカの夜」その他の作品を発表してアカデミー・フランセーズの会員になっていた、けれど、若いころの作品はちっとも評価されていない、という、イフの話。若き詩人ランボー、アフリカの商人ランボー、アカデミー会員ランボーの三人。訳者あとがきも人を食っていて、面白い。
壁のおかげで、ランボーの記憶が甦りました。

石畳が続く通りをリュクサンブール公園の方へ歩いて行く。

展覧会らしい

フェルナン・レジェ(1881ー1955)。モディリアーニやピカソやシャガールとともにモンパルナスで絵画制作をしていた。


公園を横切る
ヴェルレーヌの彫像がある。ランボーとはどういう関係だったのですか?

自由の女神もある

ショパンも

公園を南に出て、二つ目の目的、ザッキン美術館に向かう

緑に囲まれた隠れ家のような一軒家が、目当ての美術館だった。

「若い女の胸像」(1914~1917)

キュビスムの彫刻家とされ、ピカソやモディリアーニと同様、アフリカ彫刻に影響を受けた。

入場は無料、好きな額を寄付する。

オシップ・ザッキン(1888-1967)と妻の画家ヴァランティーヌ(1877-1981)。
ザッキンはベラルーシ出身で、1909年にパリに移住し、モンパルナスでロシアや東、中欧などから来たエコール・ド・パリの画家らと親交を結んだ。藤田嗣治は友人で結婚の立会人でもあった。第一次大戦でフランスの外人部隊に入ったが毒ガスを浴びて除隊、パリに戻ってエッチングに取り組み、その後彫刻を手がけるようになる。
1920年代には、日本の二科展に出品し、来日して作品を発表して、日本の彫刻界に影響を与えたらしい。そのせいか、日本にも多数のザッキン作品がある。
法隆寺の「救世観音」がお気に入りだったとの話があり、そういえば、ザッキンの彫刻には仏像を思わせるものがある。

「黄金の鳥」(1924)


「横になった音楽家」(1943~1944)



代表作とされる「破壊された都市」(1947~1951)。第二次大戦の犠牲者を追悼する作品で、オランダのロッテルダムに置かれた。悲痛な叫び。

「ファン・ゴッホ像」(1956)ゴッホの終焉の地、オーヴェール・シュル・オワーズの野外彫刻として作られた。

「フィンセントとテオ・ファン・ゴッホの像」オランダの兄弟の生家近くに置かれているらしい。
パリ最後の訪問場所は静かでとても気持ちのいい美術館だった。彫刻の力も感じながら。
美術館を後にしてホテルに戻る。

ホテルの前にタクシー乗り場(道路の向こうはカフェ・ド・フロール)があり、ここから乗車。

シテ島を経由して

シャルル・ドゴール空港に到着。
今回の旅のブログもこれでいったん終了。さて、次にパリに来るのはいつのことか。