ルーヴル美術館㊤フェルメール、レンブラント、コロー
今回、旅の最後に訪れたのはルーヴル美術館。
2018年に年間入場者数が初めて1000万人を超え、過去最高の1020万人に達した。前年の810万人から25%増と、驚異的な増え方ですね。2012年の970万人をピ-クに、2015年のテロ事件でパリへの観光客が減少、一転爆発的に増えたのは、ここを舞台に撮影したビヨンセのMVと、中国からの観光客増(国別入場者でアメリカに次ぎ2位)のおかげらしい。
美術館では世界№1の入場者数で、2位は北京の中国国家博物館、3位はニューヨークのメトロポリタン・ミュージアム、4位バチカン博物館だったとか。
ついでながら、パリの観光施設の入場者ランキング、ルーヴルは2018年は1位だったが、前年は2位。では1位はどこだったのかというと、エッフェル塔でもなく(4位)、ベルサイユ宮殿でもなく(3位)なんと、パリ・ディズニーランド!
ここも何度目かの訪問だが、混雑はできるだけ避けたいと、月曜の朝一番に、比較的空いてるとされるカルーゼル凱旋門横の地下入口へ突撃。しかしすでに長蛇の列ができていて、ひとまず退却、日を改め、出発日の水曜昼過ぎに再挑戦したところ、すんなり入れた。
ルーヴル美術館の歴史は少々ややこしい。
始まりは1190年。英国の侵攻に備えたセーヌ川沿いの城塞としてできた。
1360年にはシャルル五世が別宮とするが、武器、大砲の倉庫に。
1527年、フランソワ一世が宮殿に改築して居城とし、チュイルリー宮やリュクサンブール宮もできる。
1678年、ルイ十四世がベルサイユへ移るとともに、ここを美術品収蔵場所にする。やがて芸術家のアトリエ、ならず者の巣窟に。
1793年、革命後の市民に王の美術品コレクションを公開する国立美術館となる。
1803年、ナポレオンのエジプトなどでの戦利品も含めたナポレオン美術館になったが、失脚でルーヴルの名に戻り、三つの翼を持つ現在の宮殿美術館へと姿を整えていく。
1989年、ガラスのピラミッドが誕生する。
収蔵品数は35万点を超え、展示されているのはうち3万点ほどなので、そう簡単にはすべてを見尽くせない。限られた時間で何を見るか。
今回は、北ヨーロッパから攻めることにし、リシュリュー翼2階(日本式では3階)へ。
オランダのフェルメール(1632―1675)の「レースを編む女」(1670年ごろ)。
23.9㎝×20.5㎝の小画面に日常の一瞬を凝縮したスナップショット。
フランドルのルーベンス(1577―1640)の間。イタリアからフランスに嫁いだ王妃の人生を描いた24枚の連作「マリー・ド・メディシスの生涯」(1621-1625)。
いつもながら、ルーベンスは人の動きも色彩も劇的で熱くて濃くて激しい、そして絵が大きい、圧倒される、バロック、との言葉しか出てこない。
外交官でもあり、工房も持ってヨーロッパ中に足跡を残したこの人は、想像するにエネルギーの塊ですね。
同じ北ヨーロッパながら、フェルメールの静謐なリアリズムの対極。ヨーロッパでフルコース料理が食べきれない日本人としては、フェルメール派になるのはやむを得ませんね。
2階から0階彫刻フロアを俯瞰する。
フェルメールとともにオランダ絵画の黄金時代を築いたレンブラント(1606―1669)の34歳の自画像(1640)。
若いころから晩年まで、セルフ・ポートレイトを多数残した。フィレンツェのウフィッティ美術館にも何枚かあった。メトロポリタン美術館にも。
代表作の集団肖像画「夜警」(1942)のあるアムステルダム国立美術館には25年ほど前に行ったものの、そのころは自画像に関心がなかったので、本家本元にどんな自画像があったのか、残念ながら記憶にない。
1660年、54歳の自画像。
「光の魔術師」とか「光と影の画家」と形容されるレンブラントにとって、自画像は人間のリアルを追求するレッスンだったといわれる。
オランダは16世紀末、スペインとの独立戦争に勝利し、17世紀に繁栄の黄金時代を迎える。貿易と商人の国の富裕な市民階級に支えられ、画家は若くして名をなし、財も得ながら、浪費癖がたたって51歳で破産、妻子の死にも見舞われ、困窮の晩年だった。探求する絵画がパトロンたちの好みに合わなくなっていったともされる。
34歳の自画像と比べ、歳を取り、人生の悲哀も感じさせるけれど、なお絵を描く気力は衰えず、毅然としているようにも見える。
レンブラントが手がけた旧約聖書の物語「バテシバ」(1654)
同じく旧約聖書をもとにした「トビアスやその家族と別れる天使」(1637)
「瞑想する哲学者」(1632)
らせん階段が、巻貝の中に入り込んだような忘れがたいイメージを与える。小品だがルーヴル所蔵のレンブラントの一番の作品とする人もいる。26歳の作品とは思えない光と影の超俗世界。
左右を反転させたレンブラント派の作品
フランス絵画の宝庫、シュリー翼へ行く。
目指す一人はカミーユ・コロー(1796―1875)。改めて見ると、さすが地元だけあって、そのコレクションはすごい、というか、代表作はすべてここにある。
「ナルニの橋」(1826)
画家が30歳でイタリアに絵画修業に行って描いた作品。筆触の残る風景は、印象派やセザンヌの先取りにも見える。
2008年に日本で大規模なコロー展があった。国立西洋美術館と神戸市立博物館を会場に、「コロー 光と追憶の変奏曲」と題した展覧会には、コローの風景画の代表作とされる上の作品をはじめ、女性画の代表作ともいえる次の2点も出展された。今から思うに、ルーヴルのコロー部屋が日本に移設されたようなものです。
19世紀の印象派の前の風景画家、ぐらいに思って夫婦で見に行った神戸で、えっ、これは、ちょっとすごい…と認識を改めたのだった。
とくに「モルトフォンテーヌの想い出」は濃淡で樹木の葉や水や空気を描き、夢とも、うつつとも知れない風景として、強く印象に残った。明治時代の横山大観たちの朦朧体に影響したのかどうかは知りません。
「真珠の女」(1858-1868)
ポーズはレオナルドの「モナリザ」、顔はラファエロというルネッサンス絵画の19世紀的再現。
「青い服の婦人」(1874)
亡くなる1年前、78歳の作だが、青も女性もみずみずしい。
この絵が描かれた年に、モネの「印象・日の出」が出品された第1回印象派展が開催されている。時代の境目。
コローは、モネ、ピサロ、ドガ、ルノワール、ゴーギャン、セザンヌ、マティス、ピカソ、ブラックら19世紀末から20世紀の画家たち、美術の潮流に影響を与え、コローの人物画を下敷きにしたピカソやブラックらの作品も数多い。
ただ、同じような風景画を描き過ぎたせいか、一時忘却され、1930年代のオランジュリー美術館での回顧展で再評価され、蘇ったらしい。
「ヴェレダ」(1868―1870)
ルーヴル美術館で模写をする人。
市民に開かれた美術館として、19世紀から多くの画家がここで過去の絵画を模写し、色彩や造形を学び、自分流の絵画を追い求めた。ルーヴルの果たしてきた役割は計り知れない。