パリ95番バス

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欧州ロングジャーニーパリ編⑬セーヌ川ナイトクルーズとエッフェル塔

セーヌ川のナイトクルーズに出かけた。

パリに来ると、ほぼ欠かさない。目的はライトアップされたエッフェル塔

これまでのクルーズはバトー・ムーシュを使っていた。アルマ・マルソーの橋近くから出ている一番ポピュラーなクルーズ船だが、乗り場までホテルからバスで行く必要があり、今回は乗り場が近くて歩いて行けるヴデット・デュ・ポン・ヌフを選んだ。

写真に見える通り、ポン・ヌフ橋のたもとからの出発し、シテ島を回ったあと、エッフェル塔の先でUターンする約1時間のコース。

夏のパリ、到着した午後9時過ぎはまだ明るい。出航の9時45分になって、やっと夕暮れの雰囲気に。

ポン・デ・ザール(芸術橋)

名のある古式ゆかしいヨットらしい

ノートルダム大聖堂が見えてきた

焼け落ちた尖塔も再建された

「卓越した専門知識でノートルダム・ド・パリを再建する」と書かれた大看板。修復にかかわるプロフェッショナルたちの写真か。技術者へのリスペクト。

コンシェルジュリー。裁判所の一部で、フランス革命時は牢獄として、処刑前のマリー・アントワネットが投獄されていた。

ポン・ヌフ

フランス学士院

オルセー美術館

国民議会の向こうにエッフェル塔の頭が見えてきた

アレクサンドル3世橋に来ると、次第に大きくなる

これが見たくて、クルーズに乗る。

エッフェル塔は、フランス革命100周年の1889年に開催されたパリ万国博覧会のモニュメントとして建設された。鉄橋の設計者として知られたギュスターブ・エッフェルが手掛けた。巨大な鉄塔計画に対し、「無用にして醜悪」「フランスの芸術と歴史の危機」と多数の芸術家らが抗議声明を出した。作家モーパッサンや、オペラ座を設計建設したシャルル・ガルニエも含まれる。

パリの街に現れた当時世界一の高さ(312m、現在はアンテナを含め330m)の鉄塔は、万博で人気を博し、やがて「鉄の貴婦人」と呼ばれるようになり、パリのシンボルになった。

バベルの塔とも比較されたが、こちらは神の怒りを買わなかった。

鉄のレース編みが透かし模様となって光輝く


フランスの思想家ロラン・バルトに「エッフェル塔」(宗左近、諸田和治訳、ちくま書房)という本があります。よくわからない部分も多いのですが、うなづくフレーズもあって、エッフェル塔という不思議な存在を読み解く面白い本です。

今回の旅ではクルーズ以外、エッフェル塔の写真はほとんど撮りませんでしたが、バルトの本を抜粋、引用させていただくとともに、過去の情景を掲載しました。

「どんな季節でも、晴れた日はもとより、霧、黄昏、曇、雨のときでも、どんな地点からでも、また屋根、円屋根、草むらの作るどんな風景があなたを隔てていようと、塔はつねにそこにある」(ロラン・バルトエッフェル塔」より)

ルーブル宮殿は君主制に、そして凱旋門は帝政につながっている/ノートルダム寺院だけはとりわけロマン主義的想像の中で、パリのある理念と一つになることはできた。だがそれも実際には、当時、ノートルダム寺院の尖塔がこの首都を支配し、所有し、守っているように見えたからに他ならなかった。そしてエッフェル塔がパリでもっとも高い記念碑として姿を現した時、ノートルダム寺院からこの塔へと自動的に譲り渡されたものは、結局、高さから生まれるこの保護機能なのである」(同)

「パリを一つの映像で表現しなければならないおりには、世界中至る所に、パリの象徴としてこの塔は現れる」(同)

塔の展望台からのパリの夕景。

モーパッサンが「塔を見ないですむ唯一の場所だから」と、エッフェル塔内のレストランで食事をしたというのは、有名なお話。

エッフェル塔は軽さの象徴である/エッフェル塔は土地の中につきささるというより、むしろ大地の上に置かれているように見える」(同)

「この塔の無益性こそが、この塔のパリ的な性向をさらに強めた。教会であれ、宮殿であれ、エッフェル塔以外のすべての記念碑がなんらかの使用目的を持っていたのに対して、エッフェル塔だけは観光の対象以外のなにものでもなかった。この塔の空虚さそのものがこの塔を象徴に指名したのである」(同)

エッフェル塔は、大地と街を空に結ぶ橋である。だが、この塔が結ぶその空は、神の空ではなく、一世紀もたたぬうちに飛行機と飛行船とで人間の空間となる、この空である。そのまっすぐな橋は、パリの他の橋の仲間入りをし、橋の群れを守っている」(同)