パリ95番バス

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ピカソの「生きる喜び」

パブロ・ピカソ(1881~1973)は第二次世界大戦後の1946年9月から11月まで2か月間、アンティーブのグリマルディ城にアトリエを構え、数々の作品を制作した。ここを去る時、制作した23点の絵画と44点の素描を市に寄贈し、これをもとに1966年、ピカソ美術館が開館した。

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天衣無縫というか、童心に返ったようなというか、子供の無邪気な絵のような作品も多い。

 

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グリマルディ城は13世紀に建造された城砦で、1928年から市立博物館に使用されていた。ピカソは博物館側から「ここで絵を描いて欲しい」と頼まれたのだが、願ってもない申し出だったようだ。

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64歳のピカソと同棲を始めていた25歳の画家フランソワーズ・ジロー(1921~)は、このアンティーブ滞在にも同行した。

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写真家ブラッサイは著書「語るピカソ」で、アンティーブからパリに戻ったばかりのピカソに7か月ぶりに会った時のことを書いている。

ピカソの秘書で友人のサバルテスいわく「彼はとても調子がいい…フランソワーズが子供を生むんだよ…それで彼は若返っちゃってね…こんなに陽気で、こんなに幸福で、こんなに力に溢れているピカソって、見たことがないよ」

ピカソがやって来る。上半身裸で、インデアンの酋長みたいに真っ黒に日焼けし、頭を剃り、顔をこんがりと灼いて、鼻孔や肌にはまだ塩と海風が匂っている…」

地中海に面した陽光溢れるスペインの街マラガ出身のピカソは「北部の霧、低い空、湿気が大嫌いだった。(中略)光と熱と海に対するノスタルジーが、解放直後ほど激しく彼を突き動かしたことはかつてなかった」。

ドイツの占領で閉じ込められていたパリから大好きなコート・ダジュールへ。

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ピカソは大きな封筒からシマのうつした写真をひと山出してみせる。壁画の写真がある。水着で立ったりかがんだりして仕事をしているピカソ自身がいる。毛むくじゃらな上半身、ガンジーのように日焼けした顔にきらめく白眼の輝き……。私は写真を眺める。小さな牧神たち、肩に三叉の戟をかつぎ、横笛や野笛を吹き鳴らしているケンタウルス、バッコスの巫女たち、牧神姿のニンフの群れ、むっくり盛りあがった乳房と肉付きのいい尻とほっそりした背中に垂れかかる髪の毛のバッコス祭尼たち、あらゆるところにフランソワーズ・ジローの肉体がある」

「生きる喜び」とピカソが名づけた絵。

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「無邪気な陽気さ、官能の喜び、異教的な歓喜が、地中海の青空のうえに透かし模様のように描かれたこれらの軽やかなものの形、これらの田園風景を息づかせている」

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その後ピカソは再びパリを離れ、1948年からアンティーブに近い陶芸の街ヴァロリスに居住。フランソワーズは二人の子供を生んだが、結局愛想をつかして53年にピカソの元を去る。7人いた女性の6番目にして「ピカソを捨てたただ一人の女」は、今も存命!の97歳。

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二人の南仏での姿を収めた1948年のロバート・キャパの写真は、二人の力関係をずばり写し撮ったと有名だ。

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5番目の女性で、「泣く女」のモデルになり、「ゲルニカ」の制作過程を写真に記録したドラ・マールの像もなぜかここにある。

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今回は行けなかったが、ヴァロリスにも壁画「戦争と平和」などを展示するピカソ美術館がある。ヴァロリス時代の陶芸作品の一部はアンティーブの美術館に寄贈された。

ピカソは73年に91歳で亡くなるまで、コート・ダジュールに住んだ。

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 ここには、前回のブログで書いたニコラ・ド・スタール以外にも現代アートの作品が並ぶ。

南仏ニース出身で、「クライン・ブルー」のモノクロームアートで知られ、若くして亡くなったイブ・クライン(1928~1962)のブルーのトルソもあった。地中海の青、とされる。一目見たら、忘れられない青。

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地中海を臨むテラスにジェルメーヌ・リシエ(1902~1959)やミロの彫刻がある。

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南仏生まれのリシエは美術学校で学んだあと、1925年から29年にかけ、パリのブールデルのアトリエで働き、彫刻を学んだ。ジャコメッティと同じ世代で、ブールデルに学んだのも同じ。ここにある彫刻も一見、ジャコメッティの細い人間(ほど細くはないが)を思わせ、画像を見た私の友人が「なぜにここにジャコメッティが」と言ったほど。

互いに影響を与えあったのかと想像をめぐらせたが、そういうわけでもないらしい。

というのも、ジャコメッティの彫像のモデルであり研究者の矢内原伊作の著書「芸術家との対話」は、1956年にリシエに会った話に一章充てているものの、リシエとジャコメッテイとの交流の話は一切出てこないからだ。

その一方で、矢内原はリシエの作品を「不安と戦慄の世界」ととらえ、ジャコメッティの作品に見た戦争の惨禍の影を見るのだが、リシエは「死者のことを考えたことはない」「私に興味があるのは死ではなく生です」と答える。

ピカソがここで「生きる喜び」を感じたように、地中海の風光の中では死者も甦るのかもしれない。

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