パリ95番バス

映画と本とアートと遊歩

マティス美術館

南仏の最後はマティス美術館。ニースのシミエの丘にあり、ローマ時代の遺跡が保存された考古学博物館が隣接する。

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エントランスは地下にある

アンリ・マティス(1869~1954)は第一次大戦下の1917年にパリからニースに移り、第二次大戦の爆撃を避けてヴァンスに一時住み、ロザリオ礼拝堂のデザインをした。その後、またニースに戻って、54年に84歳で亡くなった。後半生のほとんどをコートダジュールで過ごしたことになる。

17世紀の邸宅を利用して1963年に開館したこの市立美術館の所蔵品は、画家と遺族の寄付がもとになっている。

エルミタージュ美術館ニューヨーク近代美術館、パリのポンピドーセンターにある、極め付きのマティス絵画は、ここにはない。だから「物足りない」という感想を持つ人も多いようだが、初期から晩年に至る全体像を知るにはいい個人美術館だと思う。

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1892年から97年までパリの国立美術学校で学び、ルオーらとともに「世紀末幻想画」のギュスターブ・モローに師事した。ルーヴル美術館で模写し、伝統的絵画からスタートしたが、印象派を知り、ロンドン旅行でターナーを知る。コルシカ島にも旅して、次第に画風が変化する。f:id:LOUVRE:20190803102911j:plain

ルーヴルでの模写作品(1893年

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こんな素朴な絵も描いていた

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静物(1997年)

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1898年の風景画はモネ風を超えて、野獣派の片鱗

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1898年の風景画。家の造形に色彩が侵入する

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「オルガンの上の静物」(1899-1900)は斜め上からの視点

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「日傘の女」(1905年)は、シニャックの点描画の影響が

マティス、マルケ、ルオー、ブラマンク、ドランらがフォーヴィスム(野獣派)と呼ばれるようになったのは、1905年のパリの秋のサロン展。展示室の中央に置かれた素朴な子供のトルソ像を、激しい色遣いの絵画作品が、さながらフォーヴ(野獣)ように取り囲んでいた、と批評家が書いたことに由来するらしい。

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マティス夫人の肖像」(1905年)は、余白とフォーブの色彩感覚の妙

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仲間のドランによるマティスの肖像

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これも仲間のマルケによるマティス夫人

 

  しかし、個性はバラバラで、印象派とかナビ派とかと同様、ひとくくりにし切れないことは、画家それぞれのその後を見れば明白だ。美術史的にはわかりやすいけれど。

それよりも興味深いのは、このサロン展に先立つ1901年に、ゴッホの回顧展が開かれていたこと。世界、自然を見えるままの色彩、形態で描くのではなく、感情を投影し、自分で組み立てた造形、色彩で表現する、というゴッホの絵画観にフォーブの画家たちは共鳴していたらしい。

マティスもまた印象派およびセザンヌゴッホゴーギャンらポスト印象派の影響を受けていたようで、30歳ごろ、セザンヌの「三人の水浴の女」をはじめ、ゴッホの素描、ゴーギャンの絵を購入していたという。

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若きころ

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晩年

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 ロシア・サンクトペテルブルグエルミタージュ美術館はなぜかマティスのコレクションを所蔵している。

 ロシアの実業家で織物の輸入業をしていたシチューキンが、1910年前後にマティスが描いた装飾的絵画を気に入り、パトロンとなって購入した。赤いテーブルクロスと壁紙が一体化し、果物の器や壺が宙に浮いているように見える「赤い部屋」や女性5人が輪になった「ダンス」など、代表作とされる数々の作品を含め油彩37点を蒐集した。

シチューキンはピカソ、モネ、ゴーギャンドガなどの作品を買い集め大コレクションをつくったが、17年のロシア革命で没収された。その後、エルミタージュとプーシキン美術館に収納され、一部は米国にも渡った。松方コレクションしかりで、あの時代の絵画は戦争や革命の波にもまれた。

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 「森の中の妖精」

マティスに戻ると、画家はある日、パリでバスの車窓からショーウインドウにある伝統的プリント生地に目を止め、絵画の背景に柄を描きこむことを思いついたという。装飾性は織物職人の家系に由来する説もあるが、旅行で受けた刺激も大きかったようだ。。

1910年のスペイン旅行で、イスラム芸術の装飾性にあふれたアルハンブラ宮殿に感激した。12年のモロッコ旅行では花の絨毯が広がる光景に息をのんだ。

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「花と果実」(1952-1953)

下はアルハンブラ宮殿の壁のアラベスク模様。似ているといえば似ている

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17年からの南仏生活。

「ニースの光は素晴らしい。この光を毎朝見られると気付いた時、自分に訪れた幸運を僕は信じられなかったよ」f:id:LOUVRE:20190803103744j:plain

「赤い箱とオダリスク」(1927年)

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「横たわるヌード」(1927年)

しかし絵画にやや行き詰まりを感じて、30年にニューヨーク、タヒチ旅行へ。

ヨーロッパにはないニューヨークの摩天楼に魅かれたマティス。摩天楼の「空に消えゆく色のグラデーション」や河畔から見る高さの異なる大建築の日暮時の光景に、感動の言葉を残している。

ゴーギャンのいたタヒチには「楽園」を見る。オセアニアの空と海の生き物が躍動するシルクスクリーン作品(1946-1947年)が、美術館のチケット売り場の壁にあった。

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パペーテタヒチ」(1935年)

バーンズコレクションで知られるアメリカの美術収集家バーンズの自宅の装飾「ダンス」は、制作過程がわかる型紙が残されている。

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 「私が一番ひかれるのは静物でも風景でもなくて、人物像である。私が生について抱いているいわば宗教的感情をもっともよく表現させてくれるのが人物像なのである」(マティス

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「眠る女」(1941年)

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「黄色いテーブルで読書する人」(1944年)

「私が夢見るのは心配や気がかりのない均衡と純粋さと静穏の芸術であり(…)つまり肉体の疲れを癒すよい肘掛け椅子に匹敵する何かであるような芸術である」(マティス

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「肘掛け椅子」(1946年)

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「ザクロと静物」(1947年)

バーンズ邸の装飾に取り入れた切り絵(デクパージュ)の手法は、大病をして絵筆を握れなくなった晩年、ロザリオ礼拝堂のステンドグラスのデザイン、切り絵と自筆テキストの挿絵本「ジャズ」、そして「ブルーヌード」に昇華する。

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「ジャズ」(1947年)

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 この絵は何かというと、「ナイフをのむ曲芸師」。言われないとわからないデザインの境地

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ロザリオ礼拝堂のステンドグラスのレプリカ

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ここにも礼拝堂のためのデッサンがあった

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「大きな頭、仮面」(1951年)

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「葦の中で水浴する女」(1952年)

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「ブルー・ヌード」(1952年)

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「芸術家は、たったひとつのアイデアしか持たない。芸術家はそのアイデアとともに生まれ、それを一生かけて発展させ、息づかせるのだ」(マティス

 20世紀後半のアートを先取りしたような新しさが、マティスにはある。

 

 「僕はマティス」(パイ・インターナショナル)、「マティス 画家のノート」(二見史郎訳、みすず書房)、「近代絵画史」(高階秀爾著、中公新書)ほかを参照しました。