パリ95番バス

映画と本とアートと遊歩

マティスの礼拝堂

サン・ポール・ド・ヴァンスから隣村のヴァンスへはニースから来たのと同じ400番のバスで7分ほど。土曜の昼間は30~40分に1本運行し、ヴァンスは終点だ。

バスターミナルの周りは変哲もない街並み。「Chapelle du Rosaire  MATISSE」と書かれた標識があった。

途中、深い崖にかかる橋を渡り、山上に見える旧市街を横目に15分ほど歩くと、ブルーの屋根に白い壁の建物が現れた。

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画家アンリ・マティス(1869~1954)が建物からステンドグラスに至るすべてをデザインしたドミニコ会ロザリオ礼拝堂。

晩年の1947年から51年にかけ、4年がかりで建てられた礼拝堂について、マティスは次のように言っている。 

「この礼拝堂は私にとって、画家としての人生全ての結果であり、真摯で困難で絶大な努力が実を結んだものである」

「私が模索しながら歩み続ける道程の終着点において、運命の方から私を選んでくれた仕事であり、この礼拝堂が私の模索を一箇所にまとめて留める機会を私に与えてくれた」

「この人間らしい感情の表現からは、そこに含まれ得る誤りは自ずから抜け落ち、造形の伝統の未来と過去を結びつける、命に満ちた部分が残るだろう」

 (冊子「アンリ・マティスが手がけたヴァンスのドミニコ派ロザリオ礼拝堂」から)

 

マティスが礼拝堂のデザインを引き受けたのは、ニースで絵のモデルをし、腹部がんの手術を受けたマティスを看護師としても世話した女性の存在があったとされる。

マティスは1943年、ニースへの爆撃を避けてヴァンスに転居した。家の向かいのドミニコ会修道院に尼僧見習いとして来たその女性と再会、修道院が新たに作る礼拝堂のステンドグラスの下絵を女性がマティスに見せたのが、きっかけだったという。

 70代に入り、病気のせいもあって絵画から切り絵に新たな世界を見出していたマティスは、ベッド、車いすの生活の中で、切り絵を使ったステンドグラスのデザインや聖母子像などの下絵づくりを進める。

椅子に座り、棒の先に付けた木炭でデッサンする写真も展示されている。

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祭壇は撮影禁止だったので、冊子から以下6枚の写真を掲載させていただく。

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祭壇の背後のステンドグラスは「命の木」と名付けられ、ウチワサボテンがモチーフになっている。不毛な砂漠で花を咲かせ、実をつけることから、忍耐力や意志のシンボルと考えたそうだ(冊子から)。

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ヤシの葉をデザインした脇のステンドグラスとともに、用いた色は緑、黄、青の三色。

壁には白色のセラミックのパネルに黒の線だけで描かれた聖母子、キリストの生涯の14場面、聖ドミニコ

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聖母子像

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キリスト14図

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聖ドミニコ

体の状態のせいもあったのだろうと憶測するが、線だけのシンプル(へたうま、ともいう)の極みは、子供の絵というか、原初的な絵というか。

礼拝堂の完成はマティス81歳の時だった。

具象と抽象のあわいで色彩にこだわった絵画の探求の果てに、たどり着いた最後の境地…。

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マティスデザインのキリスト磔刑

ここには、様々なデッサンや祭壇の模型、画家デザインの司祭の式服もある。

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模型

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司祭の式服

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外壁にも聖母子像があり、遠目に青と見えた屋根は白と青の文様になっていた。

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屋根に置かれた十字架もマティス

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ピカソと南仏でともに暮らしたフランソワーズ・ジローの「ピカソとの日々」(野中邦子訳、白水社)には、マティスと、この礼拝堂のことが出てくる。

交流した人々の中で、ピカソにとって「マティスほど重要な人はほかにいなかった」という。しかしながら、礼拝堂について、無神論者(だったと思われる。共産党に入党したほどだし)のピカソは辛辣だった。

ステンドグラスの色彩にケチをつけただけでなく、マティスに「きみはなんでこんなことをしているんだ?彼らの教義を信じているからだというなら、認めてもいい。だが、信じていないなら、こういうことをするのはモラルに反すると思う」と言った。

これに対し、マティスはこう答えたという。

「これは本質的にひとつの芸術作品だ。自分のことに気持ちを集中させているだけだ。神を信じているかどうかはわからない。じつのところ、自分のことは一種の仏教徒だと思う。だが肝心なのは、祈りに似た心理状態に自分自身を置くことなのだ」

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キリスト教色をあまり感じさせない空間。マティスが言うように、教会をモチーフにした心を解放させるアート空間、ということかもしれない。

フランソワーズ・ジローの本には、南仏でのピカソマティスの興味深いエピソードがまだまだ書かれているが、ここでの引用は以上に。

 昨年10月のイタリア旅行でバチカン美術館を訪れた際、現代アートの展示室にロザリオ礼拝堂のステンドグラスのデザイン画や聖母子像のスケッチがあり、実際に見たくてやってきた。

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礼拝堂のテラスからヴァンスの村が望める

ヴァンスの旧市街にも心ひかれたが、ニースへのバスの時刻も気になり、残念ながら足を踏み入れなかった。