イタリア旅行③夢うつつのヴェネツィア
新幹線イタロの車窓から海が見えてきたと思う間もなく、ヴェネツィア本島のサンタ・ルチア駅のホームに列車は滑り込んだ。2日目の10月9日午後5時。スーツケースを押して駅舎を出ると、目の前に懐かしい風景があった。
人の往来が半端ない。風景をめでるのは後にして、ホテルにたどり着くのが先決だ。歩くこと3分、ホテル「ウニベルソ・エ・ノール」にチェックインし、従業員の案内で2階の部屋へ。階段を上がり、進み、曲がり、また小階段を上がり、下がり、曲がり、部屋からロビーまで戻れるのか、心配になる。すでにヴェネツィアの迷宮に入り込んだ気分。部屋は質素だが、駅そばの便利さで選んだ95ユーロのホテルなので、十分と思う。
休憩もそこそこに、ホテルを無事に出て、近くのヴァポレット(水上バス)乗り場へ。路線番号、行先、出発時刻の電光掲示板があり、わかりやすい。
夕日を背にして、船は逆S字形のカナル・グランデ(大運河)を滑って行く。
水に浮かぶ建物群、そばを行くゴンドラのゆっくりした動きが、21年前に来た時の記憶を呼び覚ます。
リアルト橋から
「快速」なので、次の停船はリアルト。観光スポットのリアルト橋の最寄停留所。ここで、満員の船から多くの乗客がはき出される。橋の上は人で埋まっている。暮れなずむ大運河の光景をしばし眺める。
ドイツの哲学者ゲオルグ・ジンメルは「芸術の哲学」(川村二郎訳)の中で、ヴェネツィアについて、こう書いている。
「おそらくいかなる都市においても、その生活がこれほど完全に一つのテンポを保って営まれることはないだろう。車を引く動物や乗物の速度が変化して、それを追う眼を引きさらうということは決してなく、ゴンドラは歩行する人間と全く同じテンポとリズムで進んでいく。このことが、以前から感じられていたヴェネツィアの『夢のような』性格の、本来の原因である。(…)われわれは、いつも変わらぬ持続的な印象のもとでは催眠状態に陥る。絶えまなしにわれわれを捉えているリズムは、われわれをうつらうつらとした非現実の境に導いて行く」
ゴンドラがヴェネツィア。
ジンメルの生きた19世紀末から20世紀初めは自動車も珍しく、船しかないヴェネツィアとのテンポの差は、現代の車に溢れた都市の方がはるかに大きい。ジンメルの時代にあっても、ヴェネツィアは類まれな都市だったのだから、現代人にとってはさらに奇妙な都市、ということになるはずなのだが、水に浮かぶ街の映像情報が刷り込まれ、テーマパークに慣れ親しんだ現代人は、この都市の異様さを意外に思わないのかもしれない。生きた街というより、テーマパークのひとつ。
リアルト橋のそばにある13世紀の旧ドイツ商館を改造したT・フォンダコ・デイ・テデスキbyDFCという長い名前のショッピングモールを覗く。この屋上からはヴェネツィアの街が一望できるとの話だったが、30分ごとの予約制で、1時間近く待たなければならないため、断念して、夕食のレストラン探しに。
T・フォンダコ・デイ・テデスキbyDFC。下も。
リアルト橋を渡って、ガイドブックに載っていた店を求めて夜の帳が下りた通りを大運河から離れて奥へ奥へと進む。入り組んだ道に入り込み、Google経路案内も迷子になったみたいで、店がすぐに見つからず、人通りも絶えてきたので、少々心細くなり、引き返す。
リアルト橋
ヴァポレットに再び乗ってサン・マルコ広場へ向かう。
迷宮の旅
「ヴェネツィアでプルーストを読む」という本で、フランス文学者鈴村和成さんは、次のように書く。
さらに言えば、当時のヨーロッパ人にとって、究極の旅とはヴェネツィアの旅であった。プルーストと同時代の小説であるトーマス・マンの『ヴェニスに死す』(1912年)でも、主人公のアッシェンバッハはどこか熱帯に旅立つことを夢見ながら、近場のエキゾチックな土地として、旅の目的地をヴェネツィアに選ぶのである。
ヴェネツィアでは、異国の中に異国が、旅の中に旅が折りたたまれている。人はヴェネツィアという旅先にいて、さらなる彼方を夢見ることになる。
プルーストはヴェネツィアでイタリアという外国にありながら、外国の外国、彼方の彼方にオリエントの幻影を垣間見たのだった。
しかし、究極の旅としてのヴェネツィアと言うとき、人は不思議な感情に見舞われずにいない。
ヴェネツィアとはまた迷宮の謂(い)いではなかっただろうか?行方定めぬ水の流れに身をゆだねて、ヴェネツィアで人は道に迷うことしかできない。あの曲折する運河(リオ)の水と、狭く曲がりくねった路地(カリ)とは、人を迷わせるラビリントスの仕掛け以外の何物でもあるまい。
そう、プルーストが誘うのは迷宮の旅なのである。迷宮の旅だけが真の旅であるということが、『失われた時を求めて』を旅のガイドとして読むとき、私たちに与えられる教訓なのだ」
フランスの作家プルーストもジンメルとほぼ同時代の人だった。あの時代、やはりヴェネツィアは、今よりはるかに特別な場所だったのだ。
鈴村さんはプルーストの旅をたどりながら、この大小説家にとって、さらにはこの小説にとってのヴェネツィアの重要性について、思考をめぐらす。滞在時間23時間のこちらの旅とは大違い。うらやましい。大学で仏文学を専攻したので、プルーストも教材として読み、文章が迷宮のようだった(フランス語の読解力が欠けていただけかも知れない)記憶がある。以来何回か翻訳で「失われた時を求めて」に挑戦したが、途中で投げ出して今に至る。この機会に再チャレンジしてみよう(むろん翻訳で)。
観光症候群
世界的にツーリストが激増し、観光地自体も、かつて行けなかった秘境に行けるようになって、観光地の希少性も変わってきた。むろんヴェネツィアは人気都市に変わりはなく、人口5万人余りのところに年間1000万、2000万人?(この数字がはっきりしない)の人が来るということで、年ごとの観光客増は家賃の上昇を招き、工場や食料品店が廃業して、土産物店など観光客向けの店ばかりになり、住民が「到底生活できる街ではない」と毎年1000人単位で脱出、2016年には、もう観光客はいらん、と地元民がデモまでしたというから、観光症候群も重症だ。
大運河の入口にあるサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会。バロック様式で内部にはヴェネツィア派の絵画があるが、今回は残念ながらパス
夜のサン・マルコ
船着場から夜のドゥカーレ宮殿を回り込んでサン・マルコ寺院、そして広場へ。広場は白々とした灯りに満ちて、400年近い歴史のある老舗カフェの前には何十とテラス席が並び、クラシックの演奏が繰り広げられている。カフェを利用しない観光客も取り囲んで、1曲終わると拍手喝采。
脇道に入ると、レストランの前で、「こんにちは」「日本語メニューあるよ」と2人のウェイターが日本語で声をかけてきたので、素直に従う。夜の食事はイカ墨パスタと魚介の盛り合わせにプロセッコも飲んで、ヴェネツィア定番メニューの味はまあまあやな、ということで、ホテルに戻ることにした。
ところが、ヴァポレットの運航時刻を確認していなかったために問題が。ホテルへ戻る快速の最終便は出た後で、各停のみになっていた。オー・マイ・ガー!航路自体はたいした距離ではないのだが、14ある停留所ごとの接岸、離岸に時間がかかり、船に揺られて、うとうと夢心地に。はっと目を覚まして窓の外を見れば、灯りが落ちた建物と建物の間に、冥界に導くような黒々とした水路があるばかりで、どこを通っているのかも定かでない。ホテル最寄りの停留所にようやくたどりついたのは、出発から40分、午後10時を過ぎていた。