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イタリア旅行①「最後の晩餐」

なぜか、イタリアの都市の迷宮、朽ちゆく世界に身を浸したくなった。

仕事から完全リタイアして1年余り、リタイアの文字を入れ替えればイタリアになる。

 21年前、妻と高校生の息子、中学生の娘の4人で参加したツアーで、ヴェネツィアフィレンツェ、ローマを観光した。今度は、妻と2人の個人旅行。前よりは少し都市の懐に入れたかと思う一方、6泊8日(10月8日~15日)でミラノを加えた4都市をたどるお決まりのツアーみたいなコースだから、ありがちな観光、となったのはやむを得ませんね。ローマでアモーレ!

困ったイタリア流

 ネット情報には、「人気観光スポットはチケット購入に1,2時間の行列はザラ」と、行列嫌いには恐ろしいことが書かれており、そもそも予約しないと入れないところもある。そこがツアーと違う悲しさ。

フィレンツェのウフィッツィ美術館、ローマのバチカン美術館の夜間見学はスムーズに予約できた。しかし難関があった。

 ミラノの「最後の晩餐」は20分刻みの予約制で、ネットの予約受付は10月、11月分を2か月ほど前から受け付ける。1週間ほど前に予告される受付開始日時をチェックし、指折り数えて、その日を迎える。予約は人気アーティストのライブ並みに取りにくいとの話だが、ミラノ滞在の9日朝から昼過ぎまでならどの枠でもOKだから、何とかなるだろうと思っていた。

 甘かった。受付解禁と同時にアクセスしたのに、予約可能枠はすでに1枠3人のみ。「わたしはロボットではありません」のチェックボックス、そして道路標識の分割画面認識へと進む。機械と人間の区別をするシステムで、その関門は承知だったのだが、チェックしても別の設問が出て、「なんだ、一体」と切れそうになりながら、なんとかクリアしたが、データを入力しているうちに、「なくなりました。予約できません」の無情な表示。ああ。

 誰が相手かわからないが、争奪戦に負けました。ツアー会社や業者は事前に一定の枠を押さえているのか?。解せない気持ちで、現地のチケット予約代行「totteoki ROMA」に頼んだら、「9時半からの英語ガイド付きのツアーがある」ということで、やむなく手数料を払って予約した。すでにイタリアに腹が立っていた。

 そしてもうひとつ。ローマのボルゲーゼ美術館も予約制なので、2か月前から、「10月13日午前11時」の予約をとるべく、受付日を毎日チェックしていたが、2週間前になっても予約可能にならず、ええい、面倒、もう行かん、と投げ出して、何日かして見たところ、受付が始まっていて、すでにその時間の予約は埋まっていた。普通、2か月前からとか、1か月前からとか、決め事があるものなのに、イタリア的いい加減さを思い知った。

 大阪空港から成田乗継のアリタリア航空。ヨーロッパ乗継便に比べ、到着日と帰りの日にわずかでも観光時間がとれるので、少々怪しい評判には目をつむって選んだ。ネットでの航空券予約、WEBチェックインは問題なかったものの、エコノミー席の窮屈さと、機内サービスの???が残念。

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機内からのミラノ

ミラノ・マルペンサ空港に10分遅れの午後6時25分着。入国手続きはEU以外は最初1ブースのみ、しかも中国からの団体客と到着時間が重なり、超スロー。そのうち3ブースになったが、段取りの悪さはさすがイタリアと、この国への偏見がどんどん醸されていく。

空港シャトルバスは1人8ユーロと安く、快適。1時間ほどで、午後9時前にミラノのスタチョーネ・チェントラーレ(中央駅)へ。宿泊は翌日の列車利用に備え、駅前のホテルミケランジェロ。外観、ロビーはビジネスマン向きの近代的仕様。部屋は広く、ジェットバス付で超快適。このあたりでイタリアの好感度アップ。単純過ぎるけど。

幻想のドゥオーモ

 メトロで3駅の夜のドゥオーモに行く。駅の階段を上がると、広場の向こうに姿が見えた。100本を超す尖塔を夜空に突き上げ、白く浮かび上がるゴシックの教会は幻想的だった。

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闇に浮かぶドゥオーモ

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広場はさすがに人もまばら。隣のガレリア・ヴィットリオ・エマヌエーレ2世に入る。鉄骨とガラスのアーケードがあるショッピングスポットだが、テラスのあるレストランが開いている以外、プラダもグッチもショーウインドウの灯りのみだった。

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夜のガレリア

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広場にはアップル?とパトカー

 翌日、素晴らしい内容の朝食ビュッフェのあと、8時過ぎにチェックアウト。

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オレンジを自分で機械に入れて生ジュースをつくる。3個でコップ1杯。楽しくておいしい

リアル「最後の晩餐」

「最後の晩餐」のあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会にメトロで向かう。最寄駅からぶらぶら歩いて7分ほど。赤煉瓦の教会にたどり着く。海外旅行者にはもう当たり前だけれど、海外Wi-FiGoogle経路案内は欠かせない。

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9時20分前に他のツアーメンバーと集合し、セキュリティを通って中へ。このガイドツアー約20人のうち、日本人はわれわれと名古屋の同年輩のご夫婦の4人。やはりネット予約が取れず、同じ予約会社に依頼したとか。ローマから入ってミラノから帰る、こちらと逆コースの個人旅行最終日だったが、ルフトハンザの帰国便が飛ばなくなって延泊したそうだ。

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中庭

 3つのガラス扉をくぐって、かつての食堂だった暗い部屋に入ると、右手の壁にレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)の「最後の晩餐」がある。一行はカメラ、スマホで写真を撮りまくる。フラッシュなしなら撮影OK。太っ腹だ。

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イエス・キリストが「あなたたちのうちのひとりが、わたしを裏切る」と12使徒に告げた聖書の1シーン。

中央に座るキリストの言葉が波紋を広げる様子が、使徒たちの表情と身振りで表現されている。

 近いグループほど、驚愕の表情で、身振り手振りも大きい。遠いグループの使徒はイエスの言葉が聞きとりにくかったので、「今、何と言った」と言葉を確認し合っているという解釈もある。伝播の時間差、そしてキリストのこめかみを消失点とする遠近法。

15分は短いようで、1枚の絵をしっかり見るには十分な時間かもしれない。

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 高階秀爾さんは「バロックの光と闇」で、レオナルドの「最後の晩餐」は、テーブルがコの字形だったり、裏切者のユダが一人テーブルの手前にいたりした先例の絵とは異なるとして次のように書いている。

「テーブルを画面と並行に真横に配置し、中央にキリスト、その左右に、ユダも含めた弟子たちを6人ずつ並べるという新しい造り方を生み出した。つまり中央のキリストを軸として、左右完全に均整のとれた構成である。しかも、その6人ずつの弟子たちが、それぞれ変化に富んだポーズを示しながら、3人ずつのグループにまとまるように描かれている」

そして「左右の均衡、ピラミッド型の構成は古典主義的表現の基本」として、「多様なものの統一という秩序感覚が、レオナルドの画面を隅々まで支配している」という。

一つの画面にこめられた静と動のドラマ。

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 一番左、顔がやや黒く、キリストと同じ皿に手を伸ばしているのがユダ

 「レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き」(コスタンチーノ・ドラッツィオ著、上野真弓訳)によると、レオナルドは、遅筆なうえに制作を途中で投げ出すようなところがあり(完全主義者か)、フィレンツェでは、ボッティチェリらのパトロンだったロレンツォ・デ・メディチに評価されず、ミラノに来たらしい。ここで、肖像画が評判になり、ミラノ公スフォルツァに教会の壁画を依頼された。3年がかりで1498年に完成すると、たちまち高い評価を得て、ミラノさらにはイタリア中に名声が広がる。

 それはよかったのだが、卵と油を混ぜたテンペラ技法を使ったことで、絵がカビて劣化が進み、1500年代の半ばを過ぎると、すでに壁のシミのようになっていたという。

それでも名画として生き残ったところがすごい。第二次世界大戦では、連合軍の爆弾が修道院を直撃して建物は崩れたらしいが、修道士が積んだ土嚢で壁画の崩壊は免れたという話も残っている。現在、見ることのできるのは、22年がかりで1999年に修復が完成した姿。

 絵画の劇的演出は、レオナルドがミラノ宮廷の舞台演出で、俳優やダンサーの演出をしていた経験が生かされているという。よく知られた話だが、レオナルドは、街の中でそれぞれの使徒にふさわしい顔の男を見つけてスケッチし、動作を研究していたとされる。

 トム・ハンクス主演の映画「ダ・ヴィンチ・コード」(ダン・ブラウンの原作は確か読んでいない)は、「最後の晩餐」のキリストの向かって左隣は使徒ヨハネではなくて、マグダラのマリアで、彼女とキリストの間に生まれた女児をテンプル騎士団が隠したというお話。

これに対し「レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密」の著者は、「確かに女性に見えるが、当時、ヨハネを女性のような表情で描くのは当たり前だった」として、この説を一蹴している。ただ、レオナルドの遺作で、指を立てて不気味に笑う姿が印象的な「洗礼者ヨハネ」とは、あまり似てない気もして、女性説を完全否定するのもどうか。レオナルドの絵にこめられたメッセージや暗号は、解明しつくされていないと思いたい。f:id:LOUVRE:20181022235646j:plain

「最後の晩餐」の向かいの壁に描かれたキリスト磔刑

 最後に「イタリア紀行」を書いたドイツの詩人ゲーテさんにも登場してもらいます。

ゲーテは、1788年に「最後の晩餐」を見学し、まとまった文章を書いている(「ゲーテと歩くイタリア美術紀行」=高木昌史編訳=から)。

ゲーテは絵を絶賛したうえで、修道院の食堂に描かれたことにこそ意味があるする。

「人はその場所に身を置き、このような僧院の食堂を支配する道徳的な安らぎを考えて欲しい。そして絵に力強い感動と情熱的な動きを吹き込み、芸術作品をできるだけ自然に近づけ、それを直ちに身近な現実と対照させた芸術家を感嘆して欲しい」

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 ゲーテはこんなことも書いている。

「レオナルドがこの絵に吹き込んだ主な手段について述べなければならない。それは手の動きである。これはしかし、イタリア人だけが見出すことができたのである。イタリア人においては、肉体全体が才気に溢れており、四肢が感情や情熱、否、思想すべての表現に参加する」

言い得て妙…。