パリ95番バス

映画と本とアートと遊歩

日常に魔法をかける 映画とアートと直木賞

「私の描くグッとムービー」というコーナーが、朝日新聞の金曜の夕刊にある。いろんな人が、イラストとともに好きな映画を1本、マイライフにからめて紹介するのだが、映画評論の専門ではない人だからこその視点と出会いが面白い。

9月8日は、イラストレータ田村セツコさんの「女は女である」。1961年のジャン・リュック・ゴダール作品を60年代に映画館で観た、というから、私より映画歴も人生歴も長いようだ。ゴダール映画というと、その後政治色が強まり、ヌーヴェルヴァーグ云々で語ってしまいがちだが、田村さんは違う。

アンナ・カリーナ演じる主人公の女性の魅力をひたすら語る。 

「彼女は平凡な生活を非日常に変える天才なのよ」

エスプリの利いたパリジェンヌのノンシャランぶりは、今でも私のお手本かも」

「彼女がカメラに向かってウインクするのは、『どんなことも楽しんでね』って語りかけているような気がしたわ。私が描くイラストの女の子がよくウインクしているのは、私からのエール。どんな日常も宝物よ」 

伝えきれないがイラストも語りもカラフル。

誰にも、心の1本=グッときた映画があることを教えてくれるコーナーだ。 

この記事を読んで、別の記事を思い出した。

8月22日の読売新聞火曜夕刊の連載「いま風」にあった作家島本理生さんの「アート鑑賞のマナー 目の前のもの 楽しむ」。

島本さんは、モチーフやコンセプトが理解しづらいことがある現代アートは苦手だったが、知り合いの女性作家の一言で、すべてを頭で「理解」できると考えるのは間違いではないかと思うようになる。子供と出かけた美術館。リボンの掛かった箱が山積みされた展示のところで、夢中でリボンをほどき、箱をただ開け続ける子供の姿に、「プレゼントは開ける瞬間が一番楽しいのだ」と気付く。そこからこんな感想を持つ。

「今のこの瞬間目の前にあるものに能動的な関心を持つ。

それはアートを楽しむためのマナーであると同時に、人がいきいきと日々を過ごすこと全般にいえるマナーではないかと思う」 

「どんな日常も宝物」に通じる世界観。

普段は流し読みのこの欄をきちんと読んだのは、記事に短く添えられた島本さんの近況の一文に魅かれて。一人旅で倉敷大原美術館を訪れ、最も印象的だった児島虎二郎の作品「朝顔」を「着物姿の女性が背伸びをして、咲き誇る花に水やりをしているもので、夏の光の美しさがすべて凝縮しているような一枚だった」と。

日常の美を切り取ったと思われるその絵を見てみたい、と思わせる文だった。 

同じ夕刊の文化欄に、「月の満ち欠け」で直木賞を取った佐藤正午さんが寄稿していた。

受賞して何が変わったかという、おおかたが聞きたくなる質問を煙に巻きながら、「どれほどひとの穏やかな日常を掻き乱してくれるんだ、といいたい出来事が相次いでいる」と本音を漏らす。人前に出て、喋ったり、本にサインしたりしていればいいだけの「小説家」をめぐる韜晦に満ちた文が続き、そして…

「小説家であることは楽だ。

 けどたいして楽しくもない。

 じゃあ楽しいことって何だ?

 それは、たとえば社交性とかアウトドアとかマイレージとか、そのへんの言葉を体現して生きている人からすればもしかしたら嘘に聞こえるかもしれないが、仕事場でひとり、パソコンに向かっている時間である。もっとびっくりされるようなことを言えば、仕事場でひとり、パソコンに向かっている場面を想像する、その瞬間でもある」 

佐藤さんの文章は一筋縄ではいかず、引用が難しいが、日常を大切にし、ひたすら小説を書くことに楽しみを見出す作家の姿というものが、見えるような気がする。そんな中からしか、佐藤さんのような作品世界は生まれてこないのではないか。日常を貫いて到達する非日常の小説。 

毎日配達される日常そのものの新聞に、時々、ふっと日常に魔法をかける言葉が載っている。だから、購読はやめられない。