ルーヴル美術館㊥ドラクロワ、ロベール、ラ・トゥール
この絵は誰の絵か?
ウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)の「ディエップの高台からの海景」(1852)。
印象派が描いたような風景。ドラマティックで色彩が躍る絵を描き続けた19世紀フランス・ロマン主義の画家の54歳の作品というから、少し驚く。こんな淡泊な絵もたまには描きたかった、ということでしょうか。
「海は素晴らしく穏やかで、私が見た中でも、最も美しいもののひとつだった」と、元になった光景について日記に書いている。(高橋明也編著「ドラクロワ 色彩の饗宴」)
実際の絵は空も海も、写真より黄金色がかっている。
マルモッタン美術館で、モネのコレクションの中に、ドラクロワのエトルタ風景の小品があり、モネのエトルタにはドラクロワの影響があったのか、と感じたことを思い出した。
シュリー翼で、カミーユ・コローに続いてドラクロアの部屋へ。二人は同時代人で、コロー同様、代表作のほとんどはルーヴルにある。
「墓場の少女」(1823)
「この刃物のような眼はいちど見たら忘れられない。ドラクロアのエキスがこの白眼のハイライトに点滴されている」(赤瀬川原平)
このあと、同時代や歴史的な事件を描いた作品をサロン(官展)に次々と出品する。
「リエージュの司教の暗殺」(1829)
「ポワティエの戦い」(1830)
ドゥノン翼の大部屋には、オスマントルコのギリシャ系島民の虐殺をテーマにした「キオス島の虐殺」(1824)、古代アッシリアの物語をもとにした「サルダナパールの死」(1827-28)、そして「民衆を導く自由の女神」(1830)などの大作があるが、代表作とされるこれらの作品は、20代から30代初めにかけての画業初期に制作されていた。
ルーベンスの影響を受けたと思われる「サルダナパールの死」。
「絵画にとって最も大事なことは、目のための饗宴であるということだ」(日記=「ドラクロワ 色彩の饗宴」から)。
1830年の七月革命で蜂起したパリの市民を描いた「民衆を導く自由の女神」
教科書を含め露出過多のため、三色旗と合わせフランスを象徴するイメージとして日本人に刷り込まれている。時事的絵画はこれを最後に描くのをやめたらしい。
英国の美術史家ケネス・クラークは、絵画「十字軍のコンスタンチノープル入城」について次のように書いている。
「ルーヴル美術館にあるドラクロワのいくつもの大作を注意深く眺めるということは、強い意志の努力を必要とすることであって、くたびれ果てた観客がフェルメールの≪刺繍する女≫の方に足を引きずって行きたいという気持ちに、共感を覚えることができる。しかし、それでもこの巨大な、煙るような画面と、その隣にある燃える炎のような≪サルダナパールの死≫の前に2分間じっと佇んでいると、私はしだいに、ここにこそ、完璧な腕の冴えを保ちつつ、色彩と線描とによって自己を表現した19世紀の最も偉大な詩人の一人がいることを思い知らされるのである」(「絵画の見かた」)
ロンドンのナショナル・ギャラリー館長も務めた人なのにか、だからか、鑑賞疲れのことをよく御存じだ。
画家は33歳でのモロッコ旅行で、アラブ世界に新たな美を発見し、補色の効果を確信して色彩を進化させてゆく。
「フレデリック・ショパン」(1838)
初期の「墓場の少女」と同様、目にインパクト!
音楽、文学に造詣が深く、ショパンと親交があり、シェイクスピアやバイロンを愛読した。
自画像(1837)
晩年、サン・シュルピス教会の礼拝堂の絵画制作のため居住した家は現在、国立ドラクロワ美術館になっている。サン・ジェルマン・デ・プレ教会裏の小さな広場に面し、看板も控えめなので、何回か通り過ぎて、やっと見つけたのだった。
ドラクロワはルーヴルでティツアーノやルーベンスを模写し、そこから生れた絵をマネやセザンヌやルノワールが模写し、フランス近代アートの誕生につながって行く。
ユベール・ロベール(1733―1808)の「ルーヴル美術館のグランド・ギャラリーの計画案」(1796)
フランス革命(1789)後のルーヴル美術館構想にかかわったロベールは、グランド・ギャラリーの照明と改修を担当した。この絵にある天井からの採光、鑑賞しやすい縦長のギャラリーは、現在のドゥノン翼(下)にそのまま残っている。じつは、下の写真は偶然撮影したもので、あとになって2枚がほぼ同じ場所であることに気付いた。
「ニームのメゾンカレ、古代闘技場とマーニュ塔」(1787)
古代ローマ遺跡を18世紀の日常生活に出現させたような不可思議な絵を描き、「廃墟のロベール」と呼ばれ、人気だったようだ。2008年には日本で展覧会があった。現代のローマでもそうだが、古代の廃墟には心惹かれるものがある。
「ポン・デュ・ガール」(1787)
オリエント、エジプト、ギリシャ・ローマの古代芸術、イスラム美術から13~19世紀半ばまでのヨーロッパ絵画、彫刻を所蔵するルーヴルは、目当ての絵を探すのに少し手間取る迷宮だ。しかし、通りすがりに、面白い作品との出会いもあるので、迷うのも悪くない、と思う(時間が許せば)。
作者をチェックできなかったが、こんな作品とか
こんな作品も。
これは早世したテオドール・ジェリコー(1791-1824)の「エプソムの競馬」(1821)。非現実的フライング・ギャロップが物議を醸した。
ドラクロワのライバルでもあった新古典派、ドミニク・アングル(1780―1867)の「ヴァルパンソンの浴女」(1808)。ドガが絶賛したそうだが、この背中に魅かれたのか。
フランシス・ジェラール「プシュケとアモル」(1798)
おしりの絵画にも遭遇する。
超リアリズムの静物画(下も)
ここで働く人たちの日常を追ったドキュメンタリー 映画「ルーヴル美術館の秘密」に、展示責任者の一人がスタッフに話す場面がある。
「できるだけ多くの絵を展示して来館者を途方に暮れさせるか、選び抜いた展示か。
来館者は2時間も回れば歩き疲れ、多すぎると言うだろう。
でもルーヴルは何度でも参照する大きな書物だと思う。
観光客のためだけなら、ミロのヴィーナスやモナ・リザを一緒に飾れば彼らは満足するかも知れないが、歩くのをやめ、知的刺激を得ることもない。
だからこそ、数多く展示したい」
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)の「改悛するマグダラのマリア」(1625―33)
ろうそくの炎を光源とする独特の明暗の世界。カラヴァッジョの影響を受けたとされる。
ラ・トゥールは没後250年を経た20世紀になって「再発見」された。
「大工の聖ヨセフ」(1640)
キリスト生誕を描いた「羊飼いの礼拝」(1644?)
「いかさま師」(1632)
おや、こんなところにモネが。
ルーヴルには二月革命の1848年までの絵画を、それ以降はオルセーにと棲み分けをする中で、ルーヴルのモネ、ルノワール、ドガら印象派の作品は、照明を落とした部屋にひとまとめにして展示され、少し邪険な扱いをされている感じではあった。