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映画「セザンヌと過ごした時間」(2016年)ー林檎を描く姿を見たかった

セザンヌの絵が20世紀の芸術家の心をとらえたのはなぜか、その絵はどのようにして描かれ、あの造形、色彩、タッチに込められたものは何か、もろもろのセザンヌ絵画の秘密を映画は見せてくれるのではないか、という期待が多少あったのだけれど、むろんそれはないものねだり。映画と同時代に生きたピカソにはアンリ・ジョルジュ・クルーゾーの「ピカソ 天才の秘密」があり、そんなドキュメンタリーでもなければ、創作の秘密を映像化するのは不可能ですからね。

画家、音楽家の伝記映画はあまたあるけれど、うーんとうならせる映画にまでするのは至難の業。事実を大きく変えられない、超えられないという制約があり、部分のエピソードで自由な想像を楽しむしかないせいでしょうか。「アマデウス」や怪優ゲーリー・オールドマンの「不滅の恋/ベートーベン」あたりは、ミステリーをどう読み解くか、あるいは事実の空白が多くて作る側に物語の肉付けの余地がある分、虚実の虚の面白さがあって傑作となったけれど、18世紀末から19世紀初頭の話だからこそできた面もあって、19世紀末から20世紀になると、そうもいかない。

モンテーニュ通りのカフェ」などコメディを主に手掛けてきたという75歳のダニエル・トンプソン監督が、15年のリサーチの末に長年の夢を実現させたという、この映画は、原題も「Cezanne et Moi(セザンヌと私)」とあるように、友人の小説家エミール・ゾラから見た二人の友情の物語がベースだ。ゾラがセザンヌをモデルに書いた小説「作品」では友情にヒビが入るし、ゾラの妻はセザンヌを嫌っているし、と一筋縄ではいかない関係が、エクスとパリという二つの場所と時間を行きつ戻りつしながら描かれる。うっかりしていると、今、どういう事態にあるのか、ということがつかみにくいきらいはあるけれど、おかげで生涯を直線的に描く退屈さからは逃れられたかも。

セザンヌが偏屈、がんこ、なおかつ思ったことは言いたい放題という、あまりそばにいたくないタイプであったことは、ガスケの「セザンヌ」ほかでよく知られていて、「芸術に対する狂気の愛」という映画の人物造型はそのものぴたりだ。監督がインタビューで答えているように、19世紀末のマネや印象派の画家たちの作品世界を再現したピクニックの情景や、光あふれるエクスの自然には心浮き立つものがある。パリ・コミューン、写真の登場、ドレフュス事件などの時代性、タンギー爺さんや画商ヴォラールとのエピソードなどもきっちりと盛り込まれている。

ピカソにもマティスにもジャコメッティにも敬愛された「近代絵画の父」の神話化を避けるのには適切だったのだろうと思う反面、カンヴァスに自然の模倣ではない独自の世界を構築したセザンヌの「感覚」、ミステリアスな部分をもう少し描いて欲しかった、とセザンヌファンとしては物足りなさを覚えてしまう。

ところどころに画家の絵が映しだされる。当然絵を描くシーンもある。リンゴの絵を描いている場面も見たかったなと思う。ただ、エンドロールの「サント・ヴィクトワール山」は良かった。次第に余白多く、抽象画のような世界へ移ろうセザンヌの世界をここに集約し、作品がすべてを物語っている、という印象を持った。

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